レスラーノート

永源遙

1946年1月11日
石川県鹿島郡旧鹿西町出身
178cm 110kg 血液型:A型

通称
法界坊
タイトル歴
IWA世界タッグ
NWA世界タッグ(セントラルステーツ版)
得意技
エルボードロップ
つば飛ばし
デッドリードライブ(自爆)

中学卒業後、大相撲の立浪部屋に入門。61年7月に初土俵。63年9月場所で、序二段で優勝。66年5月、木村政雄(ラッシャー木村)の誘いで大磯、寺西と共に東京プロレスに入門。10月12日、蔵前国技館での東京プロレスの旗揚げ戦で、木村政雄を相手にデビュー。この試合で木村は永源のヘッドバットをくらって大流血し、試合後に8針縫う激闘となった。5分6秒、逆片エビ固めに敗れた。 67年5月の崩壊で日本プロレスに移籍。坂口の付き人となる。73年1月にはアメリカ武者修業に旅立つ。 アメリカ修行時代はグレート・トーゴーを名乗り、安達(ミスター・ヒト遠征当時はトーキョー・ジョー)とのコンビで3月にNWA世界タッグ王座(セントラルステーツ版)を獲得している。同年秋の帰国と共に新日本プロレスに移籍。80年6月、ストロング小林と組んでマイティ井上、寺西勇組を破り、IWA世界タッグ王座を獲得。同年11月18日に結婚。仲人は後に首相となった森喜朗だった。84年9月にはジャパンプロレス、86年3月に全日本プロレス、そして00年6月のノア旗揚げへ参加。試合中、相手に胸を叩かれた拍子に飛び出すツバ直撃弾を得意とする。客は新聞紙を広げてよける。業界一の人脈を誇り、プロモーターとして才能を発揮した。06年3月26日、スポーツセンターろくせい大会で引退試合。4月28日、帝国ホテルでの引退記念パーティーには大関の栃東、渡哲也、梅宮辰夫、馳浩衆議院議員ら約800人が集まった。引退後はノアの営業部長として活躍。08年4月、ノアの常務取締役に就任。6月11日、ラスベガス・リビエラホテル&カジノでのプロレスラーOB会「カリフラワー・アレイ・クラブ」総会に出席。ハーリー・レイスの推薦の結果、インターナショナル・アワードを受賞した。三沢の死後、09年7月にノアが新体制に移行してからは相談役としてノアを支えた。12年3月15日、宝島社から「内側から見たノアの崩壊」が発売。泉田による告白という体裁で、ノアの反社会的勢力との関係を暴露した内容が反響を呼んだ。3月23日、ノアの公式サイトが、反社会的勢力との交際を理由に仲田龍GMと永源の一般社員への降格を発表。実際には3月9日の取締役会で降格が決定されていたとの記載があった。16年11月28日、午後4時30分ごろに都内のサウナで倒れ、急性心筋梗塞のため死去。
スクラップブック
デビューのきっかけ
――永源さんは、アントニオ猪木と豊登が1966年10月に旗揚げした東京プロレスでデビューしましたが、入団するキッカケというのは?
「ラッシャー木村さんのコネで入ったんですよ。大磯(武)と寺西(勇)と一緒に。3人とも相撲の立浪部屋にいたんだけど、立浪一門の宮城野部屋出身だった木村さんから声を掛けてもらったんです。それで伊東にあった東京プロレスの合宿所へ行ってね。他に相撲からは、大剛(鉄之助=二所ノ関部屋)と柴田(勝久=朝日山部屋)が東京プロレスに来ましたね」
――永源さんのデビューは10月12日、蔵前国技館での旗揚げ戦で、相手はその木村さんでした。
「まだ20歳だったし、緊張しましたよ。ヘッドバットでやり合って、木村さんが流血して・・・5分でやられたけど、忘れられない思い出ですよ」
(Gスピリッツ Vol.36より)
東スポWEBより(2016年11月29日 18時18分)
猪木氏が永源さん追悼コメント 1か月前に会食「本当に元気が良かった」
 28日に急死した永源遥さん(享年70)がプロレスラーのキャリアを始めたのは、1966年にアントニオ猪木氏(73=参議院議員)をエースとして旗揚げされた東京プロレスだった。
 猪木氏にとっては、いわば最初の“弟子”で50年の付き合いになる。猪木氏は「サウナの中で死んじゃったの? みんなしようがない。オレたちの仲間は体を酷使している。スポーツということ以上にね」と達観した様子で語った。
 永源さんは猪木氏が後に設立した新日本プロレスにも参加。「レスラーでも型破りの営業ができた。なかなかレスラーでもそんなにいない。当時の新日本の裏のほうでも動いてくれた。相撲時代のタニマチの関係もあった」。永源さんは“営業部員”としても実力は抜きん出ていたという。
 1976年12月に行われた新日プロのパキスタン遠征にも同行。猪木氏が地元の英雄アクラム・ペールワンの腕をへし折った伝説の一戦(同12月12日)にもセコンドとして“参戦”した。
 永源さんはその後、ジャパンプロレスに移籍し全日本プロレス、ノアと渡り歩いたが、猪木氏との“師弟関係”は続いた。1か月前にも会ったばかりといい「共通の友達がいて、何回か銀座でもメシを食った。本当に元気が良かったから、会うと昔の話になって『いや〜(あのころは)良かったですね』って言ってましたよ。謹んでご冥福をお祈りします」と故人をしのんだ。
日刊スポーツのWEBサイトより
([2016年11月30日9時24分 紙面から])
 28日に急死した元プロレスラー永源遥さん(享年70)の追悼セレモニーが12月2日のノア後楽園大会で行われる。ノアが29日、発表した。ともに戦ったレスラー仲間からは、死を惜しむ声が相次いだ。東京・成城警察署の検視によると、死因は急性心筋梗塞だった。
 永源さんの遺体は、この日午後に検視を行った成城警察署から、世田谷区の自宅に戻った。永源さんは28日にノア事務所で内田会長と話をした後、午後2時過ぎに退社。その後訪れたサウナで倒れ、帰らぬ人となった。死因は急性心筋梗塞だったという。
 内田会長は、事務所で会見し「昨日、普通に事務所で会話して、永源さんのプロレス人生をお聞きしたばかり。青天のへきれきで、頭の中は真っ白」と言葉を詰まらせながら語った。通夜、告別式の日程も決まっていないが、ノアとして12月2日の後楽園大会で、追悼セレモニーを行うことを急きょ決めた。当日は10カウントに黙とう、会場には献花台も設置する。
 突然の訃報に、戦友たちも言葉を失った。全日本では先輩に当たるグレート小鹿(74)は「ショックだよ。ノアの専務として営業で頑張っていたけど、三沢君が死んでから急に元気がなくなってね。お前が死んだらおれが葬儀委員長をやってやるなんて、冗談言って励ましたこともあったよ。それが本当になるなんて。オレより先に死ぬヤツがあるか」と語った。
 全日本の渕正信(62)は悪役商会のメンバーとして、ともにジャイアント馬場のファミリー軍団と戦った。「89年の後楽園大会で、ロープではねかえった永源さんが、馬場さんのチョップを受けてツバを飛ばしたんだ。それが、遠くまで飛んで、お客さんに受けて。永源さんのツバ攻撃は、敵じゃなくて観客席に飛ばした。それが名物になったんだよ」と昔を懐かしんだ。
 現役時代、サウナ仲間だったのはスタン・ハンセンさん(67)。米コロラドの自宅で訃報を聞き「永源さんは酒が飲めなくて、地方巡業では、試合後はオレと永源さんはいつもサウナだった。サウナ好きの永源さんが、サウナで死ぬなんて。これって因縁かな。寂しいよ」としみじみと話していた。