ダークロHP

リスマルク
LIZMARK


本名:ファン・バニョス・バスケス
1950年12月18日
メキシコ・オアハカ州ジャノ・グランデ出身
172cm 93kg
タイトル歴:NWA世界ウェルター NWA世界ミドル NWA世界ライトヘビー ナショナル・ウェルター ナショナル・ミドル ナショナル・ライトヘビー ナショナルタッグ ナショナルトリオ ゲレーロ州タッグ ゲレーロ州ミドル WWA世界ライトヘビー
得意技:サルト・モルタル ブエロ・アクロバティコ プランチャ・スイシーダ

通称「アカプルコの青い翼」。驚異的な跳躍力で人気爆発。 6歳までオアハカ州で過ごし、家族と共にアカプルコに移住。8歳でヒムナシオ・アカプルコというジムでボクシングを始める。10歳のころからは断崖絶壁から海に飛び込む観光客相手のダイビングショー「ラ・ケブラーダ」で小遣いを稼ぐ。11歳の時に父が病死したため小学校とジムを辞めてヒルトンホテルで働く。バーテンダーとして勤務。18歳のころにヒムナシオ・ビキンゴという名のジムでボディビルのトレーニングを始める。 71年、ボディビルのミステル・アカプルコで優勝。 72年、ミステル・ゲレーロで優勝。 73年2月、ヒムナシオ・ビキンゴに出入りしていたルチャドールのルシフェールの勧めでアレナ・コリセオ・デ・アカプルコでルチャドールとしてのトレーニングを開始。マラビージャ・コステーニャ(アブンディオ・ラディージャ)とベラウリオ・メンドーサの指導を受けた。 75年11月、チルパンシンゴの選手組合の主催興行でデビュー。メインでエル・サントと組んでエル・ナシ、アドラブレ・ルビ組と対戦した。ぺぺ・バルデスの命名でリスマルク(正しい発音はリースマルク)に変身。マスクは自分でデザインし、サメの尾ビレをイメージしたラインを入れた。 76年3月14日、アレナ・コリセオ・デ・アカプルコでエル・エクストラーニョと組んでベラウリオ・メンドーサ、ザ・レンジャー組と対戦し、反則勝ち。この試合が公式でのデビュー戦とされた。その後、アカプルコで活躍。ルチャリブレの中心とはいえないアカプルコで地元の応援団がつくほどの人気を獲得。 77年3月10日、チルパンシンゴでエル・センタウロのゲレーロ州ミドル級王座に挑戦。3月13日、アレナ・コリセオ・デ・アカプルコでボウマンと組んでセンタウロ、グルカン組を破りゲレーロ州タッグ王座を獲得。この時期でもバーテンダーは続けていた。7月1日、アレナ・メヒコに初登場。8月10日、センタウロをウラカン・ラナで破りゲレーロ州ミドル級王座を獲得。 78年2月1日、アカプルコでマリオ・バレンスエラのナショナル・ライト級王座に挑戦。 79年2月7日、アカプルコでアメリコ・ロッカのナショナル・ウェルター級王座に挑戦。両者リングアウトに終わった。4月18日、アカプルコでアメリコ・ロッカを破りナショナル・ウェルター級王座を獲得。3本目のフィニッシュはゴリー・スペシャルだった。その後はバーテンダーを辞めてアレナ・メヒコを中心にメキシコ各地を転戦。ナショナル王座を8回防衛した。6月15日、アレナ・メヒコでアメリコのNWA世界ウェルター級王座に挑戦。8月19日、グアダラハラでアメリコのNWA世界ウェルター級王座に挑戦。 80年3月29日、ピスタ・レボルシオンでアメリコに敗れて王座転落。6月4日、アレナ・コリセオ・デ・アカプルコでエル・スプレモを破りNWA世界ウェルター級王座を獲得。以後、1年4か月で20度の防衛に成功。アメリコ・ロッコと抗争を展開した。80年から82年の間、最優秀空中ファイター賞を獲得。83、84年には年間最高人気選手に選ばれた。 81年10月23日、アレナ・メヒコでラ・フィエラを相手に防衛戦。1本目は10分24秒に体固めにフォール負け。2本目は8分7秒に高角度回転エビ固めで勝利。3本目は6分43秒にリングアウト負け。NWA世界ウェルター級王座から転落した。 82年2月19日、エル・サタニコを破りナショナル・ミドル級王座を獲得。10月20日、アカプルコでエル・ファラオンにマスカラ・コントラ・カベジェラで勝利。 83年3月3日、クエルナバカでエスペクトロ・ジュニアに敗れて王座転落。5月28日、プエブラでエスペクトロ・ジュニアを破りナショナル・ミドル級王座を奪回。6月3日、エル・サタニコを破りNWA世界ミドル級王座を獲得。NWA世界ミドル級王座を獲得後は、ナショナル王座を返上し、世界王座の防衛に専念。7度の防衛に成功した。12月2日。アレナ・メヒコでエル・サタニコに敗れてNWA世界ミドル級王座から転落。 84年1月、全日本プロレスに全日版タイガーマスク候補として初来日。全日本プロレスでは一度きりの来日であったが、シングル、タッグで無敗。新春恒例のバトルロイヤルでも優勝するなどの活躍を見せた。6月17日、スペル・リブレスに移籍。しかし団体は低迷。 86年2月28日、EMLLに復帰。 88年3月20日、シエン・カラスを破りNWA世界ライトヘビー級王座を獲得。4月1日、ティファナでコバルデ2号を破りWWA世界ライトヘビー級王座を獲得。6月24日、アレナ・メヒコでファブロソ・ブロンディの変型スリーパーホールドに敗れてNWA世界ライトヘビー級王座から転落。12月9日、アレナ・メヒコでブロンディを破り王座奪回。 89年7月21日、エル・サタニコに敗れてNWA世界ライトヘビー級王座から転落。 90年3月21日、アカプルコでブロンディを破りNWA世界ライトヘビー級王座3度目の獲得。6月、エンリケ・ベラを破りWWA世界ライトヘビー級王座2度目の獲得。11月26日。レオンでサタニコに敗れて王座転落。 91年3月、ユニバーサルプロレスに来日。5月1日、アカプルコでサタニコを破りNWA世界ライトヘビー級王座4度目の獲得。8月に息子のイホ・デ・リスマルクがデビューした。 92年4月5日、アレナ・メヒコでサタニコに敗れてNWA世界ライトヘビー級王座から転落。8月に息子と共にAAAに移籍。9月18日、アカプルコのセントロ・インテルナショナル・デ・コンベンシオネス大会のメインでウニベルソ・ドスミルのナショナル・ライトヘビー級王座に挑戦。ジャンピング・パワーボムで勝利。ナショナル・ライトヘビー級王座を獲得した。ついにナショナル及びNWA世界のウェルター、ミドル、ライトヘビーの3階級の王座獲得を成し遂げた。 93年、初代ラ・パルカを破りWWA世界ライトヘビー級王座3度目の獲得。同年4月30日、世界最大の闘技場「プラサ・デ・トロス・メヒコ」で行われたAAAのビッグショー「トリプレマニア1」でラ・パルカを相手にナショナル王座の防衛戦。延長戦で勝利して防衛に成功した。 94年6月20日、モンテレイでラ・パルカに敗れてWWA王座から転落。9月9日、リオ・ブラボーでラ・パルカに敗れてナショナル王座から転落。その後、AAAを離脱。 95年にEMLLに復帰。 96年9月18日、アカプルコでアトランティスと組んでCMLL世界タッグ王座を獲得。 97年2月にはCMLL・JAPANに来日。4月29日、メキシコシティでミステル・ニエブラ、アトランティスと組んでCMLL世界トリオ王座を獲得。 98年8月、CMLL・JAPANに再来日。 00年11月には親子でCMLL・JAPANに来日。 03年6月に2度目のAAA移籍。 04年、CMLLに移籍。しかし、左膝を負傷。 05年1月、右膝を手術。4月にCMLLに登場。11月29日、アレナ・コリセオ大会でブラック・ウォリアー、イホ・デ・リスマルクと組んでのピエロ―、イホ・デ・ピエロ―、エル・テリブレ組戦を最後に引退。引退セレモニーは行われていない。 15年12月16日、心臓発作により死去。

 グーグル検索 レスラーノート検索


ダークロHP