88年、二子山部屋に鳴戸親方の内弟子として入門。魁皇、武双山と同期だった。3月に本名で初土俵。その後は豪快な上手投げを武器に活躍。88年5月から二子桜に改名。89年2月、二子山部屋から独立してできた鳴戸部屋に移籍。3月の春場所から四股名を力桜に改名。93年7月の名古屋場所から十両に昇進。十両昇進と同時に四股名を力櫻に改名。96年7月、名古屋場所で新入幕。鳴戸部屋の幕内力士第1号となった。その後、97年9月の秋場所を前に、師匠との対立が激しくなり、部屋を飛びだす。秋場所は全休。肝機能障害を理由に休場届を出していた。98年に廃業。幕内通算成績は54勝51敗。最高位は西前頭四枚目。99年8月に全日本プロレスに入門。00年5月28日、後楽園ホールの秋山、森嶋組戦でデビュー(パートナーは井上雅央)。デビュー戦には魁皇、武双山など、相撲時代の仲間が応援に駆けつけた。デビューして1シリーズで全日本プロレスを離脱しノアの旗揚げに参加。00年度のプロレス大賞新人賞を受賞した。01年に森嶋と「ワイルド2」を結成。タッグ戦で評価を上げた。02年2月17日、日本武道館大会で森嶋と組んで高山、大森組のGHCタッグ王座に挑戦。16分1秒、力皇がパワーボムで大森に勝利。GHCタッグ王座を獲得した。4月6日、愛知県体育館大会でベイダー、スコーピオ組を相手にタッグ王座の防衛戦。19分34秒、力皇がラリアットでスコーピオに勝利。4月7日、有明コロシアム大会で中西学、吉江豊組を相手にタッグ王座の防衛戦。24分7秒、森嶋がバックドロップで吉江に勝利。5月6日、宮城県スポーツセンター大会で秋山、斎藤彰俊組を相手にタッグ王座の防衛戦。22分35秒、森嶋がラリアットで齋藤に勝利。9月7日、大阪府立体育会館大会で三沢光晴、佐野巧真組を相手にタッグ王座の防衛戦。17分55秒、森嶋がバックドロップで佐野に勝利。9月23日、日本武道館大会で秋山、齋藤組を相手にタッグ王座の防衛戦。22分47秒、齋藤のスイクルデスに力皇が敗れてタッグ王座から転落した。03年12月6日、森嶋と組んでGHCタッグ王者の永田、棚橋弘至組に挑戦。28分34秒、ナガタロック3で森嶋が敗れた。04年3月6日、GHCヘビー級王者の小橋建太に挑戦。25分28秒、ショートレンジの豪腕ラリアットに敗退。05年3月5日の日本武道館大会では、「絶対王者」として13回の防衛を重ねた小橋に挑戦。27分11秒、無双で勝利し、GHCヘビー級王座を獲得。4月24日、日本武道館大会で斎藤彰俊と初防衛戦。試合では斎藤をコントロールできず、スイクルデスや場外戦で大苦戦。25分6秒、最後は無双で勝利したものの、観客からブーイングを浴びせられた。7月18日、ノアの東京ドーム大会で、2度目の防衛戦として新日本プロレスの棚橋弘至と対戦。体格の差を活かして試合を有利に進め、張り手からラリアットを浴びせ、17分11秒、最後は高角度の無双で勝利した。9月18日には日本武道館大会で三沢を相手に3度目の防衛戦。22分10秒、無双で勝利して防衛に成功した。11月5日の日本武道館大会で田上明を相手に4度目の防衛戦。20分43秒、オレが田上で敗れて王座転落した。06年1月22日、日本武道館大会で相撲で同期だった曙と組んで小橋、泉田組と対戦。ダウンした泉田に対し、セカンドロープに上った曙の上に力皇も乗り、2人一緒に土俵入りのポーズからダイブ。17分12秒、脅威の必殺技「リキボノスプラッシュ63」(63年は2人が角界に入った年)で勝利した。07年4月1日、秋山と組んで森嶋、ヨネ組と対戦。23分17秒、力皇の無双でヨネに勝利してGHCタッグ王座を獲得。4月28日に高山、杉浦組と防衛戦。迫力満点の激しいぶつかり合いが続き好勝負を展開。27分10秒、最後は力皇の無双が杉浦に決まり防衛に成功。8月からGHC挑戦者決定リーグ戦に出場。8月12日にリーグ戦でヨネと対戦し、13分15秒、無双で勝利した。その後、頚椎負傷のため長期欠場。08年2月28日、小田原アリーナ大会で復帰。秋山と組んで、泉田、田上組と対戦。必殺の無双で泉田に勝利した。6月1日、北海道立総合体育センター大会で斎藤彰俊を相手に復帰後初のシングル戦。スイクルデスの連発で動きが止まる場面もあったが、16分55秒、ラリアットの連発から無双、天下無双とたたみかけて勝利。7月18日、日本武道館大会でGHC王者の森嶋に挑戦。13分24秒、バックドロップに敗れた。12月7日の日本武道館大会でヨネと握手し、共闘をアピール。09年2月15日、ディファ有明大会でヨネと組んで森嶋、橋組と対戦。金丸、鼓太郎、平柳が試合に介入し、5分43秒、ヨネが橋に後頭部へのキック3連発をくらわせてフォール勝ち。試合後に金丸、鼓太郎、平柳と共に新軍団結成をアピール。チーム名は「Dis Obey(ディス・オベイ)」となった。2月19日、大阪府立体育会館第2競技場大会ではGHCタッグ王者の齋藤、スミス組と対戦。18分11秒、ヨネのハイキックからの力皇の無双で齋藤にフォール勝ち。4月からヨネと組んでグローバルタッグリーグ戦に参戦。3勝2敗2分けでリーグ戦の優勝を逃した。7月5日、ディファ有明での選手会興行(ファンによる綱引きで対戦相手が決定)で鈴木鼓太郎と対戦。11分24秒、無双で勝利。11月28日、広島グリーンアリーナ大会で森嶋と対戦。13分13秒、バックドロップに敗れた。12月6日、日本武道館大会でヨネと組んでGHCタッグ王者の森嶋、佐々木健介組に挑戦。26分40秒、ヨネが後頭部への回し蹴りで森嶋にフォール勝ちしてGHCタッグ王座を獲得。大凡戦となり、試合後にはブーイングも飛んだ。10年2月28日、日本武道館大会で高山、佐野組を相手に防衛戦。序盤にヨネが高山のエベレストジャーマン、佐野のソバットを連続でくらってしまい、場外で長時間ダウン。力皇がローンバトルを耐えきり、16分36秒、合体キン肉バスターを佐野に決めてフォール勝ち。3月14日、ディファ有明大会での試合後に村上がヨネをリング上で襲撃。3月20日、後楽園ホール大会のメインでヨネと組んで村上、臼田組と対戦。ゴング前から場外乱闘となり、リング内での戦いは1度だけ。村上はレフリーをパンチでKOし、大混乱の末に6分20秒、両者反則による無効試合。両チーム退場後も観客から大ブーイング。さらにリングに上がった丸藤が千葉大会での再戦を告げたためさらに観客から怒号を浴びた。3月26日、千葉公園体育館大会で村上、臼田を相手に防衛戦。18分、力皇の無双で臼田に勝利して防衛に成功。3月28日からグローバル・リーグ戦に参戦。同日のパシフィコ横浜大会で佐野と対戦し、4分17秒、顔面へのローリングソバットに敗れた。4月10日、後楽園ホール大会で平柳と組んでAAA世界タッグ王者の森嶋、石森組に挑戦。12分、石森の450°スプラッシュに平柳が敗れた。4月14日、大阪府立体育会館第二競技場大会でバイソン、キース組を相手にタッグ王座の防衛戦。24分41秒、バイソンの雪崩式バイソン・テニエルに力皇がフォール負けして王座転落。4月16日、米子コンベンションセンター大会で杉浦と対戦し、30分時間切れ引き分け。4月28日、青森産業会館大会でバイソン・スミスと対戦し、18分47秒、無双で勝利。4月29日、仙台産業展示館大会で秋山と対戦し、11分48秒、フロントネックロックにレフリーストップ負け。5月2日、日本武道館大会で佐々木健介と対戦。13分27秒、ノーザンライトボムに敗れた。この結果、1勝3敗1分けでリーグ戦敗退。その後、新日本プロレスの大阪府立体育会館大会で真壁刀義の持つIWGP王座への挑戦が決定。6月26日の調印式では「6月19日は新日本沈没の歴史的な日になる。こいつ(真壁)は新日本を沈没させた歴史的なチャンピオンになる」と豪語。しかし6月1日から頚椎ヘルニアのため長期欠場。IWGP挑戦は中止となった。11年11月27日、有明コロシアム大会でリングに立ち、引退を表明。12年7月22日、両国国技館大会で引退セレモニー。「本日は両国大会にご来場ありがとうございます。プロレスをやってきて13年間、幸せで素晴らしい時間を過ごすことができました。ファンの皆さんのおかげです。本当に感謝しております。皆様からいただいた声援を胸に刻んで、がんばっていきたいと思います」とあいさつ。その後はノアのGHCタイトル管理委員に就任。同年末、燕三条ラーメンの人気店として有名な新潟県燕市の「潤 燕総本店」に弟子入りしてラーメン修業。13年12月5日、奈良県天理市別所町でラーメン店「麺場 力皇」をオープン。チャーシューや煮玉子などトッピング全部乗せの「極力皇らーめん」など、鶏だんごを売りに自慢のメニューを展開。
グローバル・リーグ戦(10年3月28日〜5月2日) |
3月28日 | パシフィコ横浜 | × | 佐野巧真 | 4分17秒 | 顔面へのローリングソバット |
4月16日 | 米子コンベンションセンター | △ | 杉浦貴 | 30分 | 時間切れ引き分け |
4月28日 | 青森産業会館 | ○ | バイソン・スミス | 18分47秒 | 無双 |
4月29日 | 仙台産業展示館 | × | 秋山準 | 11分48秒 | フロントネックロック |
5月2日 | 日本武道館 | × | 佐々木健介 | 13分27秒 | ノーザンライトボム
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