ダークロHP / レスラーノート

米村勉

1946年12月26日(11月26日説あり) 
秋田県鹿角郡出身
177cm 108kg

中学卒業後、大相撲の高島部屋に入門。69年1月、相撲を廃業。名古屋の土建屋で勤務。その後、横浜で船の荷下ろし作業で働く。仕事と平行して日本プロレス出身の金子武雄の横浜スカイジムでトレーニングを開始。金子の紹介で横浜の中央卸売市場で働き、ジムではインストラクターとして働く。 70年、金子の紹介で国際プロレスに入門。父が倒れたため数ヶ月で退団し、帰郷。父が回復後、横浜スカイジムでトレーニング再開。ジムでは藤原喜明が同期だった。プロレスラー志望の藤原と、金子が借りたアパートに同居していた。72年6月、金子の紹介で国際プロレスに再入門。72年9月9日、藤岡市体育館大会でデビュー。八木宏と対戦し、10分、時間切れ引き分け。タフな体と怪力でブルファイターとして活躍。80年4月、米村天心に改名。国際プロレス崩壊後は全日本プロレスにフリーで参戦。その後、奥さんの実家が会津若松だったことから福島に転居し、ちゃんこ料理屋「やぐら太鼓」を夫婦で開店。その後、全日本プロレスでは会津大会限定でレスラーとして活動した。鶴見の新・国際プロレスや高杉の湘南プロレスなどにスポット参戦した。94年10月16日、ユニオンプロレス主催の後楽園ホールでの「国際プロレス again」でバトルロイヤルに出場。96年9月27日、冴夢来プロジェクトの会津坂下町民体育館大会でマスクド・サターンと対戦。6分47秒、逆片エビ固めで勝利。息子の相撲部を応援にきた時に相撲部だった宮本和志(元全日本プロレス)と知り合う。プロレスラー志望の宮本にジャイアント馬場を紹介。「高校を卒業してから」という条件を馬場がつけ、宮本はその後入団した。16年6月20日、死去。息子は米村の四股名で05年に八角部屋で初土俵。
―― 米村さんは海外武者修行に出ることもなく、前座を温める役割をずっと担ってきましたが、プロレスを続ける上で何がモチベーションだったんですか?
「俺は他の選手みたいにチャンピオンになりたいとか、そういう夢も欲もなかったですよ。でも、会場に観に来た子供たちを喜ばせたいって気持ちはありました。昔は子供がいっぱい来てましたよね。国際の選手はできるだけサインしたり、子供のファンを大事にしました。それと前座には前座なりのプライドがあって、俺はそれをわきまえて試合をしていたつもりです。前座でショボンとした試合をすると、後に引きずるからね。不細工は不細工なりの試合の仕方があるんですよ(笑)」
(Gスピリッツ Vol.30より)
――その後に入ってきた米村勉(天心)さんは、どうでした?
「あの人は凄い力持ちなんだよ。身体が硬くても、それを補うパワーと強い足腰があればいいわけ。米村さんと大位山の作るチャンコは美味いのよ。米村さんは、今もチャンコ屋さんをやってるの?カレー味でしょ?ああ、食べたいなあ(笑)。あの人はハートがいいよね」
(Gスピリッツ Vol.33 稲妻二郎のインタビューより)

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