レスラーノート

山本小鉄

本名:山本勝
1941年10月30日
神奈川県横浜市南区中村町出身
172cm 100kg

通称
鬼軍曹
タイトル歴
テネシー州タッグ
IWA世界タッグ
得意技
フライングボディプレス

10人兄弟の6男として生まれる。中学卒業後、鋳物工場で働く。4年半、アルミ箔工場に勤務(横浜商業高校卒業後、東海金属に就職、という説もある。「プロレス」1979年3月号には、父の死を転機に夜学を半年で中退し、鋳物工場と菓子の包装紙を作る会社に約5年半勤めたとある)。働きながらYMCAのジムでボディビルに取り組む。63年1月に日本プロレス入門。7月19日、リキパレスの北沢幹之戦でデビュー。逆エビ固めに敗れた。8月、山本勝から山本小鉄に改名。リングネームは豊登が任侠の世界の会津小鉄からつけた。力道山の付き人の一人だった。力道山の死後はアントニオ猪木の最初の付き人となる。2度の韓国遠征を経験。67年1月、星野と共にアメリカ遠征。ヤマハ・ブラサーズとして、テネシー州タッグ王座を獲得。テキサス州ダラス、ヒューストン地区で活躍。エリック家に寄宿し、オフの日には息子の子守りや犬の散歩までした。69年、第11回ワールドリーグ戦でゴリラ・モンスーンと対戦。モンスーンのボディプレスをかわしてボディプレスで勝利。大番狂わせを演じた。72年3月、猪木らと新日本プロレスを旗揚げ。74年1月に星野とのヤマハ・ブラサーズを復活。 79年1月21日、国際プロレスの後楽園ホール大会で星野と組んでグレート草津アニマル浜口組のIWA世界タッグ王座に挑戦。1本目は15分23秒、浜口のエアプレーン・スピンで山本がフォール負け。2本目は7分46秒、山本が浜口にフォール勝ち。3本目は3分18秒、星野が浜口にフォール勝ちしてIWA世界タッグ王座を獲得。1月29日、茨城県勝田市総合体育館大会でアニマル浜口、マイティ井上組を相手にタッグ王座の防衛戦。1本目は2分39秒、足四の字固めで山本が井上に勝利。2本目は19分28秒、井上がサマーソルトドロップで山本にフォール勝ち。3本目は星野が浜口をフォールしたかに見えたが、ノータッチのためフォールを認められず。この判定に怒った山本がレフリーを攻撃し、反則負け。ルールにより王座防衛となった。2月23日、千葉公園体育館大会で浜口、井上組と再戦。敗れて王座から転落した。 80年4月4日に川崎市体育館で星野と組んで鶴見大位山組を相手に引退試合。鶴見へのダブルのブレーンバスターからフライングボディプレスで勝利。引退後は鬼コーチとして後進の指導に当たり、テレビ解説者としても活躍。初代タイガーマスクをモデルにプロレス技術書「ザ・ストロング・スタイル」を執筆。レフリーとしても活躍した。レフリー引退後は企画宣伝部長を経て、新日本プロレスサービス社長に就任。 03年5月1日、東京ドーム大会(前日イベント)で9人参加の新日本プロレスOBバトルロイヤルに出場。11分53秒、星野勘太郎と共闘し、山本がボディプレスで小林邦昭に勝利。両者はともに手を挙げ、「2人で1人だ!」と主張。それが認められ、ヤマハブラザーズの両者が優勝となった。 08年12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」で星野勘太郎と組んでグレート小鹿ザ・グレート・カブキ組と対戦。10分、時間切れ引き分けに終わった。 10年8月28日、低酸素性脳症のため死去。



スクラップブック
−−その頃は小鉄さんが鬼軍曹としてバリバリの時代ですよね。
練習は全部、厳しかったです。ブリッジにしても、ブリッジしたままバーベルを上げるんですよ。あとは上に3〜4人乗せるのもざらでしたから・・・そんなことばっかりしてたら、背が伸びないですよ(笑)。で、最近になって山本さんが言ってもらいたくないことを言うわけです。“昔の練習はキチ○イみたいだったな。よくあんな練習やったよなあ”って。それはアンタがやらせたんでしょうっていう(苦笑)。(中略)山本さんの場合は、“ナメんなよ!”っていうオーラを体全体から出してますよね。実際に試合するとガンガン思いっきり入れて来ますし。口の中に指を突っ込んだりとか、俺たちみたいな後輩にもやりますからね。山本さんが引退した後にテレビ解説でメキシコに来た時、スペシャルで1試合やったんですよ。自分と組んだんですけど、やっぱり山本さんは向こうの選手と全然噛み合わなかったんです。ガンガン行っちゃうから。でも、自分たちはメキシコで生活してるから、そういうスタイルでやるわけにいかないし。そうしたら山本さんにボロカス怒られてね。
(Gスピリッツ Vol.7 ヒロ斎藤のインタビューより)


【前田日明氏コラム】本当にフルスクワットやったレスラーは・・・
(2022年9月7日16:00配信 東スポWebより)
【前田日明(9)】俺のデビュー戦は1978年8月25日、相手は山本小鉄さんだった。後に本人に「何でですか」と聞いたことがある。そうしたら「誰に頼んでも断られた。『アイツは何をするか分からないから嫌だ』と言われて、しょうがないから俺がやったんだ」って。
 入門当時の体重が73キロだったんだけど、1か月練習していたら68キロまで落ちた。そこから1年頑張ってデビュー時には92キロになっていた。会社からも「デビューしなきゃいけない」と言われて、新間寿さんが入門前に「ちょっと試合してくれたらいいから」と話していたのは、これかなと。当初はボクシングを学ぶはずだったけど「まあプロレスしかないよな」ってやったんだよ。
 デビュー戦はもう無我夢中。気が付いたら終わっていた。3カウントではなく腕絡みでギブアップ負け。まあ大変だったよ、小鉄さんも。腕極めるまで俺がギブアップしないんだもん。ようやくデビューでき、新日本に世話になっているから「ちょっとずつ返していかないとな」と思ったのを覚えてる。
 小鉄さんは練習の先頭に立って、若い人間と同じメニューを正確にキッチリやる人だった。みんなヒンズースクワットのことをよく言うんだけど、ハッキリ言って本当にフルスクワットをやったのは猪木さん、小鉄さん、藤原さん、藤波(辰爾)さん、小沢(正志)さん、大城(大五郎)さん、栗栖(正伸)さん、佐山(聡)さん、船木(誠勝)と俺くらいですよ。
 小鉄さんにはデビュー戦以外も、お世話になった。練習も指導してもらったし、練習が終わったら大きめのドンブリで「5杯食え」ってノルマがあった。最初はキツイ練習したら食欲なくなるんだけど、小鉄さんは俺が5杯食べるまで、ビール飲みながらずーっと目を光らせて見てるんだよ。体が大きくなったのはそれのおかげだね。私生活とかないんじゃないかってくらい、熱心に後輩を指導してくれた。
 入門2年目くらいに親父(正雄さん)が十二指腸潰瘍で腹膜炎を起こし、手術することになって1回家へ帰った。その時、小鉄さんが「これ持っていけ」ってポケットにバッとカネを突っ込んでくれて。見たら50万円くらい入ってたんだよ。すごく後輩思いの人だったけど、怒るときは思いきり怒る。本当に厳格な人だったね。