レスラーノート

ミスター・ポーゴ

本名:関川哲夫
1951年2月25日
群馬県伊勢崎市出身
185cm 130kg

タイトル歴
セントラルステーツ・ヘビー
WCWカリビアンタッグ
得意技
火炎攻撃
鎖鎌攻撃
パイルドライバー

父の勝三郎は群馬県議を5期つとめたこともある。中央大学法学部に入学。柔道部に籍を置きながら退学。71年春に大相撲の大鵬部屋に入門。序ノ口で優勝。72年2月に廃業し新日本プロレスに入門。関川のつきそいで新日本プロレスに来たグラン浜田も同時に入門した。3月20日、足立区体育館での藤波戦でデビュー。3月の旗揚げシリーズだけ在籍し、離脱。 73年2月にアメリカ遠征。アメリカでは上田馬之助の紹介でシャチ横内が面倒を見た。シャチ横内は、ポーゴの実家からの仕送りをピンハネし続けた。ミスター・セキ、ミスター・ポーゴの名で南部を転戦。ポーゴの名の由来は、トーゴーの誤植から。 76年9月、ミスター・セキの名で国際プロレスの2シリーズに登場。同年末に再び海外遠征。 85年1月10日、セントラルステーツ・ヘビー級王座を獲得。11月に新日本プロレスに登場し、IWGPタッグ・リーグ戦にケンドー・ナガサキと組んで参戦。8チーム中7位の順位だった。 86年7月25日、新日本プロレスの秋田県立体育館大会でケンドー・ナガサキと組んで藤波、木村組のIWGPタッグ王座に挑戦。藤波のラリアットにポーゴがフォール負け。 89年1月15日、プエルトリコのカグアスで佐々木健介と組んでホセ・ペレス、ダニエル・カステロ組を破りWCWカリビアンタッグ王座を獲得した。 90年6月、FMWに登場。大仁田厚の宿敵として活躍した。 91年5月6日、大阪万博お祭り広場大会で大仁田と有刺鉄線バリケードマット地雷爆破デスマッチで対戦。13分27秒、雪崩式フェイスクラッシャーに敗れた。6月15日、開幕戦を欠場してFMWを離脱し、16日にキニョネスと共に新団体設立の記者会見。8月、W★INGの旗揚げに参加。 92年8月2日、W★INGの船橋オートレース場大会で松永光弘を相手にファイアーデスマッチで対戦。5319人もの大観衆を前に首都圏初のファイアーデスマッチで大熱戦を展開。16分、首固めにフォール負け。 93年6月23日、FMWの新潟市体育館大会でメイン終了後に大仁田厚を襲撃。7月、W★INGを離脱。FMWに再登場。 95年10月からフリーとなり、IWAジャパン、東京プロレス、大日本プロレス、WARなどに登場。

1996

96年12月11日、FMWの駒沢オリンピック公園体育館大会で引退試合。大仁田、田中将斗、黒田と組んでテリー・ファンク、ヘッドハンターズ、大矢組と対戦。23分4秒、田中のバックドロップでヘッドハンターAにフォール勝ち。試合後に大仁田流の水噴きパフォーマンスをした。その後、復帰。

1997

97年12月22日、冬木軍の伊勢崎市民体育館大会で冬木弘道と対戦。ビッグファイアーを放つがよけられてしまい、冬木に灯油をかけたところで邪道外道が乱入して大乱闘。8分27秒、ノーコンテストに終わった。

2000

00年5月、WWSを旗揚げした。以後、地元で小規模な大会を開催。

2003

03年4月、群馬県伊勢崎市議選に立候補した。大仁田厚参院議員も応援に駆けつけ、顔にペイントをして議会に出る意向を示すなど話題を集めたが、落選。

2004

04年9月22日、大日本プロレスの本庄市民体育館大会でシャドウWXと組んで、金村キンタロー、ネクロ・ブッチャー組と対戦。8分15秒、ネクロ・ブッチャーに対しチェーン絞首刑で勝利した。

2006

06年7月24日、松永光弘と組んで、葛西、Naoya組と猛毒サソリタッグデスマッチで対戦。小さな囲いの中に14匹のサソリを置いたデスマッチで、松永がNaoyaにサソリ固めで勝利した。11月12日、新宿FACEでのストーカー市川10周年記念興行「スト市ボンバイエ」に出場し、闘竜と組んで戸井克成、茂木正淑組と対戦。11分24秒、チェーン絞首刑で勝利した。

2007

07年1月に出血性胃潰瘍で入院し、3月に退院。5月28日、伊勢崎第二市民体育館でWWS旗揚げ7周年記念大会を開催。松永光弘を相手に月光闇討ちデスマッチで対戦し敗れた。

2009

09年5月29日、W★INGの新木場1stRING大会のメインで闘龍(マグニチュード岸和田)と組んでW★ING金村、BADBOY非道組と対戦。15分48秒、ポーゴの絞首刑withチェーンで金村に勝利。8月21日、W★INGの新木場1stRING大会のメインでW★ING金村とデスマッチで対戦。16分40秒、ガラスボードへのトップロープ越しDDTで勝利。

2010

10年1月26日、新FMWの新木場1stRING大会でスーパー・レザー、ジ・ウインガーと組んでターザン後藤大矢、リッキー・フジ組と対戦。当初はニセモノのスーパー・レザーが登場していたが、途中で本物が登場。18分36秒、後藤のイスの上へのパワーボムからのラリアットにウインガーがフォール負け。

2011

11年12月29日、鬼神道Returnsの新木場1stRING大会で佐藤光留を相手にストリートファイトマッチ。6分17秒、手錠で両腕を拘束し、ビッグファイヤーからのナタ攻撃で反則負け。

2012

12年2月18日、HEROの新木場1stRING大会でヤミキと対戦。7分9秒、ワキ固めで勝利。2月19日、大阪ミナミ・ムーブオンアリーナで行われたグラン浜田のデビュー40周年記念興業に出場。岸和田、空牙、タダスケと組んで浜田、ドス・カラス、ビリーケン・キッド、ツバサ組と対戦。11分34秒、浜田の雪崩式浜ちゃんカッターにタダスケが敗れた。4月10日、鬼神道Returnsの新木場1stRING大会でTHE KABUKIと対戦。8分7秒、両者リングアウト。

2014

14年7月25日 、大仁田厚プロレスの新宿FACE大会で茂木、グレート・ポーゴと組んで大仁田、矢口、保坂組と対戦。16分59秒、大仁田のサンダーファイヤーパワーボムに茂木が敗れた。11月23日のWWS伊勢崎大会を最後に長期欠場。

2015

15年3月、腰部脊柱管狭窄症の手術。

2017

17年6月22日、埼玉県内で腰の手術を受けた際に脳梗塞を発症。県内の別の病院に搬送された。6月23日、死去。
スクラップブック
松永光弘の生涯ベストバウト!火炎噴射で壮絶結末 初の有刺鉄線バットマッチ
(2020年10月25日10:00配信 東スポWebより)
【1992年3月8日 松永光弘VSミスター・ポーゴ】
 後楽園ホールでのバルコニーダイブ(1992年2月9日)により、まるで誠心会館のお荷物のようだった冴えない私が一躍時の人になりました。
 その2月シリーズの最終戦の金網デスマッチで、ジプシー・ジョーを痛めつけるミスター・ポーゴ目がけて金網最上段から乱入ダイブ(この写真はプロレス雑誌の巻頭カラーを飾りました)。大歓声の中、3月シリーズのカードがアナウンスされました。
「次回の後楽園ホールのメインイベントは、松永光弘対ミスター・ポーゴ」。私が会社のスタッフに「えっ、もうやるの!!」と聞くと「もうどんどんやらなきゃ」。確かに存続の目が出たとはいえ、日本一の弱小団体にカードを温存している余裕はありませんでした。スクランブルバンクハウスデスマッチとはリング中央に公認凶器を置き、その凶器を奪い合って使うルールですが、その公認凶器を何にするか考えなくてはいけません。
 試合前日に会社スタッフと一緒に東急ハンズを見て回りますが、いい物が思いつきません。バットは2月のバンクハウスデスマッチで既に使っています。それを超える凶器となると、ルールで禁止されている銃刀類になってしまいます。“バットと刃物の間”に相当する凶器がない。
 収穫がないまま事務所に帰ると、スタッフが話しだしました。「実は金村(ゆきひろ=当時)が『バットに有刺鉄線を巻いたらどうですか?』と言っていたのですが、シャレにならないのでやめました」。私はそれを聞き「それにしよう。大丈夫。どうせ殴られるのは俺なんだから。本人がいいと言っているんだからそれにしようよ」と公認凶器は有刺鉄線バットに決定しました。
 試合開始前、公認凶器の有刺鉄線バットをレフェリーが掲げると館内の「オーッ」というすさまじい驚きの声が控室まで聞こえてきました。
 この試合は大熱戦の末、最後はポーゴさんが私の頭に灯油をかけて、口から火炎噴射。頭部が炎上するという壮絶過ぎたエンディングで、W☆INGは世界一危険なプロレス団体の名を不動のものにしました。この松永光弘対ミスター・ポーゴ戦は、私の生涯のベストバウト。またポーゴさんも生前、自身のベストバウトにこの試合を選んでいました。当時、私とポーゴさんは敵対しながらも、W☆INGを潰したくないという思いでは一枚岩だったと言えます。