レスラーノート

ビル・ロビンソン

1939年9月18日
イギリス・マンチェスター出身
191cm 120kg

通称
人間風車
タイトル歴
英国ライトヘビー
大英帝国ヘビー
ヨーロッパ・ヘビー
IWA世界ヘビー
PWFヘビー
UNヘビー
AWA世界タッグ
CWA世界ヘビー
得意技
ダブルアームスープレックス
ワンハンド・バックブリーカー

11才の時、右の眼球を負傷して視力を失った。「蛇の穴」(ビリー・ライレー・ジム)ではカール・ゴッチの後輩に当たる。テクニシャンとして知られ、グラウンド技も得意としていた。63年6月にデビュー。12月に英国ライトヘビー級王座を獲得。65年6月ヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得。67年1月に大英帝国ヘビー級王座を獲得。68年4月に国際プロレスに初来日。4月3日、横浜スカイホール大会での来日第1戦で木村政雄と対戦。7分37秒、ダブルアームスープレックスで勝利。ダブルアームスープレックスを日本初公開し「人間風車」のニックネームがつけられた。4月30日、東京体育館大会で豊登を相手にヨーロッパ王座の防衛戦。1対1からの3本目は両者リングアウトに終わり、防衛に成功した。11月に2度目の来日。12月に国際プロレスの「第1回IWAワールドシリーズ」を制し、初代IWA世界ヘビー級王座を獲得。70年の「第2回IWAワールドシリーズ」も優勝。71年の第3回大会ではカール・ゴッチと名勝負を繰り広げた。70年夏から、アメリカへ移住してAWAで活躍。エド・フランシス(72年11月)、バーン・ガニア(72年12月)、クラッシャー・リソワスキー(74年7月)とのコンビで、AWA世界タッグ王座を3度獲得した。74年6月3日、後楽園ホール大会でラッシャー木村を相手にIWA王座決定戦。2対1で勝利してIWA世界ヘビー級王座を獲得した。11月20日、蔵前国技館大会でバーン・ガニアのAWA王座に挑戦。1本目は20分48秒、スリーパーホールドに敗れた。2本目は5分21秒、ワンハンドバックブリーカーで勝利。3本目は9分35秒、両者ノックアウトに終わり、王座奪取に失敗した。AWAを離脱後、75年暮れに新日本プロレスに登場。ストロング小林山本小鉄星野らに勝利。12月11日、蔵前国技館大会でアントニオ猪木のNWF王座に60分3本勝負で挑戦。1本目は42分53秒、逆さ抑え込みでフォール勝ち。2本目は試合終了時間が近づく中、16分19秒、卍固めに敗れた。3本目は時間切れ引き分け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞。プロレス史に残る名勝負を演じた。76年7月、全日本プロレスに初登場。7月17日、北九州市三萩野体育館大会でジャンボ鶴田の「試練の十番勝負」の第4戦として60分3本勝負で対戦。1本目は29分5秒、欧州式エビ固めで勝利。2本目は21分28秒、回転エビ固めに敗れた。3本目は時間切れの引き分け。5分間の延長戦も行ったが、時間切れの引き分けに終わった。7月24日、蔵前国技館大会で馬場のPWF王座に挑戦。1本目は9分24秒にバックドロップでフォール負け。2本目は6分8秒に逆片エビ固めで勝利。3本目は5分45秒にランニング・ネックブリーカードロップでフォール負け。12月9日、日大講堂大会でアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦。7分2秒、両者リングアウト。77年3月5日、秋田市体育館大会でUN王者のジャンボ鶴田に挑戦。1本目は取られたが、2本目、3本目に勝利してUNヘビー級王座を獲得。3月11日、日大講堂大会で鶴田と60分3本勝負で再戦。1本目は34分19秒に鶴田の勝利。2本目は11分35秒にツームストン・パイルドライバーでロビンソンの勝利。3本目は時間切れ引分けで王座防衛。3月23日、アメリカ・マイアミビーチで鶴田に敗れてUN王座から転落した。78年6月12日にキラー・トーア・カマタを破りPWFヘビー級王座を獲得。10月18日、アブドーラ・ザ・ブッチャーに敗れて王座転落。80年にはテネシー州メンフィスでCWA世界ヘビー級王座を3度獲得。81年5月31日、メキシコのエル・トレオでカネックのUWA王座に挑戦。1本目はワンハンド・バックブリーカーでロビンソンが勝利。2本目はロープ越しのブレーンバスターでカネックが勝利。3本目は逆片エビ固めを5分にわたり決められて、レフリーストップ負けに終わった。引退後はラスベガスのカジノでガードマン。後に、UWFインターの特別顧問を務めた。92年5月8日、UWFインターナショナルの横浜アリーナ大会でニック・ボックウィンクルを相手にエキシビションマッチで対戦。10分時間切れの引き分けに終わった。99年4月、「UWFスネークピットジャパン」発足と同時に来日して東京の高円寺に在住。ヘッドコーチとして若手を指導した。08年に帰国。14年2月27日、アメリカ・アーカンソー州リトルロックの自宅で死去。