デビュー前はジョージア州の刑務所で看守として勤務。86年夏、悪党マネージャーのジム・コルネットの私設ボディガードとしてノースカロライナ地区に登場し、ビッグ・ババ・ロジャースの名でデビュー。ジム・クロケット・プロがオクラホマのUWFを買収したのをきっかけに大型のパワーファイターとして本格的にレスラーデビュー。87年4月19日、オクラホマ州マスコギーでワンマン・ギャングを破りUWF世界ヘビー級王座を獲得。7月11日、オクラホマシティでスティーブ・ウイリアムスに敗れて王座転落。88年3月、全日本プロレスにビッグ・ブバの名で初来日。来日したのが馬場の団体だったため、紛らわしさを避けるための日本限定のリングネームだった。スーツを身につけて入場し、シャツを着たままで試合を行った。3月27日には高野俊二と対戦。2メートル同士の大型対決となった。ハイアングルのショルダースルー、ベルトを使った首絞めなどで高野を圧倒し、ジャンピングハイキックから、ロープに振っての豪快なスクラップバスターで圧勝した。88年夏、ビッグ・ボスマンと改名してWWFに入る。刑務所の監守の服装で、ヒールとして売り出し、ホーガンと抗争した。89年にベビーフェイスに転向し、ホーガンのパートナーとしても活躍した。92年にはネイルズと抗争し、「監守人対囚人男」の対決で人気獲得。93年7月29日、全日本プロレスの日本武道館大会で田上明と対戦。8分39秒、のど輪落としに敗れた。94年にWCWに入る。95年9月、新日本プロレスに登場。9月20日、宮城県スポーツセンター大会で武藤敬司と対戦。10分17秒、ムーンサルトプレスに敗れた。9月22日、愛知県体育館大会でスコット・ノートンと対戦。9分3秒、ラリアットに敗れた。その後はWWFでボスマンの名で活躍。98年12月14日、ケン・シャムロックと組んでWWF世界タッグ王座を獲得。98年11月30日から99年10月12日にかけてWWFハードコア王座を4度獲得した。99年3月28日、レッスルマニアでジ・アンダーテイカーとヘル・イン・ア・セル(金網マッチ)で対戦。ツームソトン・パイルドライバーに敗れた。試合後、金網天井からロープを垂らされ「首吊り処刑」にされた。その後、WWEの2軍団体のOVWで試合中に肩の骨が折れて長期欠場。03年にWWEを離脱。WWE離脱後は、オートバイ事故で重傷を負う。地元では郡政委員会の議長を務めて地域社会に貢献。04年1月12日、IWAジャパンの後楽園ホール大会で試合後に乱入し、スティーブ・ウイリアムスを警棒で攻撃。3月のシリーズからIWAジャパンに登場。8月31日、IWAジャパンの10周年記念大会に来日し、IWA世界王者争奪トーナメントに出場。2分47秒にスクラップバスターでフレディー・クルーガーに勝利して決勝に進出。決勝戦ではハクソー・ジム・ドゥガンと対戦。ドゥガンの角棒を強奪し振り上げるが、ドゥガンのセクシーマネージャーが背後からカット。その隙にドゥガンに角材ごと吹き飛ばすラグビーラリアットを決められて、惜しくも3分12秒で敗れた。9月22日にジョージア州アクアスの自宅で急死。ベッドで寝たまま息を引き取っていたのを妻に発見された。
|