ダークロHP / レスラーノート

バディ・キラー・オースチン
BUDDY KILLER AUSTIN


本名:オースチン・ロジャース
1930年2月27日(33年説あり)
アメリカ出身
188p 118kg
タイトル歴:WWAヘビー(ロス版) WWAタッグ(ロス版) アジアタッグ
得意技:ドリルアホールパイルドライバー スライディング・レッグシザース フライング・ニードロップ

「狂犬」と恐れられたラフファイターだった。アメリカ海軍出身。パイルドライバーで対戦相手を死亡させたというふれこみで活躍したが、実際には誰も殺していなかった。60年にオハイオでフランシス・ガボールの名でジョン・ガボールと組んでガボールブラザーズとして活躍。62年4月にバディ・オースチンの名で日本プロレスに初来日。6月4日、大阪府立体育会館大会でマイク・シャープと組んで力道山、豊登組からアジアタッグ王座を奪取。 63年11月5日、大阪府立体育館大会で力道山のインター王座に挑戦。反則なし、リングアウトなしのデスマッチルールでの対戦となったが、14分48秒、バックドロップに敗れた。67年2月7日、札幌中島スポーツセンター大会でジャイアント馬場のインター王座に挑戦したが敗れた。68年12月31日、オーストラリアのシドニーでペドロ・モラレスと共にギャングに囲まれ、モラレスは顔と首をナイフで切られ、オースチンは腹部に22口径の銃を撃たれた。モラレスは5日で退院したが、オースチンは5ヶ月欠場した。アメリカではロスのWWAのシングル、タッグのベルトを獲得している。常に酒を手放さない酒豪だった。引退後は牧師として活動。81年8月12日、食道ガンのため48歳で死去。

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