通称「AWAの帝王」。大学時代はアマレスの名選手。48年のロンドンオリンピック代表。49年、ミネアポリス地区の名プロモーターのウォリー・カルボとトニー・ステッカーに誘われてデビュー。51年にサニー・マイヤースを破りNWA世界ジュニア・ヘビー級王座決定トーナメントで優勝。以後、同王座を2年間保持した。
58年8月9日、オマハでエドワード・カーペンティアを破り世界ヘビー級王座(オマハ版)を獲得。11月15日、オマハでウィルバー・スナイダーに敗れて王座転落。その後、NWAヘビー級王座への挑戦権を与えられなかったためNWAをウォリー・カルボと共に脱退。60年、AWAを設立。以後、長きに渡りNWAに対抗する勢力を築いた。NWA世界王者のパット・オコーナーを初代AWA王者として認定し、防衛戦を行わなかった場合は王座を剥奪することを発表。8月16日、オコーナーが防衛戦を行わなかったことを理由にAWA世界ヘビー級王座を獲得。61年7月11日、ミネアポリスでジン・キニスキーに敗れて王座転落。8月8日、ミネアポリスでキニスキーを破り王座奪回。9月16日、オマハでドン・レオ・ジョナサンを破り世界ヘビー級王座(オマハ版)を獲得。62年1月9日、ミネアポリスでミスターM(ビル・ミラー)に敗れてAWA王座から転落。7月21日、オマハでフリッツ・フォン・エリックに敗れて世界王座から転落。8月21日、ミネアポリスでミスターMを破りAWA王座を奪回。8月25日、オマハでエリックを破り世界王座を奪回。63年7月9日、ミネアポリスでクラッシャー・リソワスキーに敗れてAWA王座から転落。7月20日、ミネアポリスでリソワスキーを破りAWA王座を奪回。7月27日、オマハでフリッツ・フォン・エリックに敗れて世界王座とAWA王座から転落。8月8日、テキサス州アマリロでエリックを破りAWA王座を奪回。9月7日、オマハでエリックを破り世界王座を獲得。世界王座とAWA王座をAWA王座に統一した。その後も強豪選手を数多くスカウトし、「AWAの帝王」として君臨した。NWAに対抗する勢力を築いた。
70年2月、国際プロレスと業務提携し、待望の初来日。AWA世界王者としてストロング小林の挑戦を2度にわたって退けた。74年11月20日、蔵前国技館大会でビル・ロビンソンを相手にAWA王座の防衛戦。1本目は20分48秒、スリーパーホールドで勝利。2本目は5月21秒、ワンハンドバックブリーカーに敗れた。3本目は9分35秒、両者KOに終わった。76年3月、通算4度目の来日から全日本プロレスに登場。81年1月の2度目の全日本プロレス登場時には、馬場とAWA、PWFのダブルタイトルマッチを行った。この試合で81年度のプロレス大賞のベストバウトを受賞した。5月に引退。その後、AWA復興を目指し復帰。ニック・ボックウィンクルや婿のラリー・ズビスコ、息子のグレッグ・ガニアらの活躍もあったが、WWFの全米侵攻作戦のあおりを受け、選手の離脱が相次ぎ、91年にAWAは崩壊した。引退後はミネアポリス郊外で余生を過ごす。晩年にアルツハイマー病を発症。15年4月27日、死去。
「ガニアは技の返しが抜群に巧い。アームロックなんかでも身体と身体に隙間を作らず、吸い付くようにピタッと付いてくる。何しろ、しつこいんだよ。こっちが腕や足を取って安心していると、パッと返されてしまう。ガラスの上で踊らされているような感じになるんだ。こういうプロレスがAWAのベーシックなのかと思ったよ。こっちが嫌がることを察知して、それを何度も反復してくる。さすがにいい時代のディック・ザ・ブルーザーやクラッシャー・リソワスキー、マッドドッグ・バションを打ち負かしてきた人だと思ったな。それと今まで戦った人には見えなかったオーラがガニアのおっさんにはあったよ」
(Gスピリッツ vol.25 キム・ドク(タイガー戸口)のインタビューより)
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