レスラーノート

バーン・ガニア

VERNE GAGNE

1926年2月26日
ミネソタ州ミネアポリス出身
182cm 112kg

通称
AWAの帝王
タイトル歴
NWA世界ジュニア
世界ヘビー(オマハ版)
AWA世界ヘビー
得意技
スリーパーホールド

通称「AWAの帝王」。大学時代はアマレスの名選手。48年のロンドンオリンピック代表。49年、ミネアポリス地区の名プロモーターのウォリー・カルボとトニー・ステッカーに誘われてデビュー。51年にサニー・マイヤースを破りNWA世界ジュニア・ヘビー級王座決定トーナメントで優勝。以後、同王座を2年間保持した。 58年8月9日、オマハでエドワード・カーペンティアを破り世界ヘビー級王座(オマハ版)を獲得。11月15日、オマハでウィルバー・スナイダーに敗れて王座転落。その後、NWAヘビー級王座への挑戦権を与えられなかったためNWAをウォリー・カルボと共に脱退。60年、AWAを設立。以後、長きに渡りNWAに対抗する勢力を築いた。NWA世界王者のパット・オコーナーを初代AWA王者として認定し、防衛戦を行わなかった場合は王座を剥奪することを発表。8月16日、オコーナーが防衛戦を行わなかったことを理由にAWA世界ヘビー級王座を獲得。61年7月11日、ミネアポリスでジン・キニスキーに敗れて王座転落。8月8日、ミネアポリスでキニスキーを破り王座奪回。9月16日、オマハでドン・レオ・ジョナサンを破り世界ヘビー級王座(オマハ版)を獲得。62年1月9日、ミネアポリスでミスターM(ビル・ミラー)に敗れてAWA王座から転落。7月21日、オマハでフリッツ・フォン・エリックに敗れて世界王座から転落。8月21日、ミネアポリスでミスターMを破りAWA王座を奪回。8月25日、オマハでエリックを破り世界王座を奪回。63年7月9日、ミネアポリスでクラッシャー・リソワスキーに敗れてAWA王座から転落。7月20日、ミネアポリスでリソワスキーを破りAWA王座を奪回。7月27日、オマハでフリッツ・フォン・エリックに敗れて世界王座とAWA王座から転落。8月8日、テキサス州アマリロでエリックを破りAWA王座を奪回。9月7日、オマハでエリックを破り世界王座を獲得。世界王座とAWA王座をAWA王座に統一した。その後も強豪選手を数多くスカウトし、「AWAの帝王」として君臨した。NWAに対抗する勢力を築いた。 70年2月、国際プロレスと業務提携し、待望の初来日。AWA世界王者としてストロング小林の挑戦を2度にわたって退けた。74年11月20日、蔵前国技館大会でビル・ロビンソンを相手にAWA王座の防衛戦。1本目は20分48秒、スリーパーホールドで勝利。2本目は5月21秒、ワンハンドバックブリーカーに敗れた。3本目は9分35秒、両者KOに終わった。76年3月、通算4度目の来日から全日本プロレスに登場。81年1月の2度目の全日本プロレス登場時には、馬場とAWA、PWFのダブルタイトルマッチを行った。この試合で81年度のプロレス大賞のベストバウトを受賞した。5月に引退。その後、AWA復興を目指し復帰。ニック・ボックウィンクルや婿のラリー・ズビスコ、息子のグレッグ・ガニアらの活躍もあったが、WWFの全米侵攻作戦のあおりを受け、選手の離脱が相次ぎ、91年にAWAは崩壊した。引退後はミネアポリス郊外で余生を過ごす。晩年にアルツハイマー病を発症。15年4月27日、死去。



スクラップブック
「ガニアは技の返しが抜群に巧い。アームロックなんかでも身体と身体に隙間を作らず、吸い付くようにピタッと付いてくる。何しろ、しつこいんだよ。こっちが腕や足を取って安心していると、パッと返されてしまう。ガラスの上で踊らされているような感じになるんだ。こういうプロレスがAWAのベーシックなのかと思ったよ。こっちが嫌がることを察知して、それを何度も反復してくる。さすがにいい時代のディック・ザ・ブルーザーやクラッシャー・リソワスキー、マッドドッグ・バションを打ち負かしてきた人だと思ったな。それと今まで戦った人には見えなかったオーラがガニアのおっさんにはあったよ」
(Gスピリッツ vol.25 キム・ドク(タイガー戸口)のインタビューより)


大巨人アンドレの師匠でもある「AWAの帝王」バーン・ガニア 壮絶だった晩年の生き様
(2023年5月21日10:02配信 東スポWEBより)
 スリーパーホールドといえば、アントニオ猪木が晩年魔性のスリーパー≠ニして多用したが、オールドファンにはAWAの帝王<oーン・ガニアの得意技として有名だ。
 ガニアは、今から53年前の1970年(昭和45年)2月1日国際プロレスに初来日。日本初のAWA世界ヘビー級王座防衛戦を行った。5日大阪、6日東京体育館でストロング小林、9日盛岡でグレート草津の挑戦を受け、いずれも1本目にスリーパーを決めギブアップを奪うという試合展開。絞め上げる写真は力強く、印象的だ。
 そして、ガニアはアンドレ・ザ・ジャイアントを育て上げたことがエピソードとして知られる。初来日した翌日(2日)、東京・渋谷の国プロのジムで公開練習に臨んだ際、練習を見学していたアンドレ(当時はモンスター・ロシモフ)と初対面。その巨体に目をつけたガニアは後に米国に呼び寄せ、レスリングのイロハを教え込み、怪力だけに頼っていたアンドレをグラウンドレスリングもできる大巨人≠ノ作り変えた。
 そのアンドレとは、75年8月9日WWWF(後にWWFからWWE)のニューヨークMSG大会で師弟タッグ≠ェ実現した。ジミー&ジョニーのバリアント兄弟を軽く一蹴している。
 ところで、84年3月5日、東スポは日本テレビのスタッフとミネソタ州ミネアポリス郊外のミネトンカ湖畔に建つガニアの邸宅を訪問した。この日の気温は零下15度。屋根はスッポリ雪に覆われていた。
 約7400坪という広大な敷地には牧場と馬屋もあり、12頭の馬を飼育。ここにはリングもあり、アマレスの選手を育てていると教えてくれた。約7億2000万円かけたという自宅は12の部屋があり、一階のゲストルーム、二階のリビングに栄光に包まれたトロフィー、カップ、パネル写真が所狭しと飾られてあった。ガニアは数々の防衛を重ねたAWAのベルトを手にポーズをとってくれた。
 機嫌の良かったガニアだが、プロレスの話になると一変「(ハルク・)ホーガンは絶対に許せない。奴は平然と裏切りWWFに走った。我々は信頼に基づいてビジネスを行ってきたのに」。怒り心頭だった。
 ガニアが親友と語っていたビンス・マクマホンから息子のジュニアに代替わりしたWWFは様変わりした。83年末にホーガンを引き抜いて84年から全米侵攻を開始すると、AWAは影響を受け低迷し始めた。ホーガンだけでなくレスラー、ブッカーらスタッフも引き抜かれ、結局、91年にAWAは崩壊。
 ガニアはミネアポリスにビルを借り、ボクシングとレスリングのジムを営んでいたが、ビルの使用料を8か月滞納。抵当先のミネアポリス・ノースウエスト銀行がガニアを告訴したことで93年8月13日、ガニアは自己破産した。
 そして09年1月、とんでもないニュースをFOXスポーツが伝えた。認知症を患い高齢者の介護施設に入居していた82歳のガニアは、同じ施設の住人である97歳の男性と口論になりケガを負わせた。その男性は2月に死亡。認知症ということもあり、ガニアは殺人罪には問われず刑事告訴されることはなかった。
 それにしても、まさかガニアが栄枯盛衰ともいえるような事態に陥るとは思いもしなかった。公には06年のWWE殿堂入りでスピーチする姿が最後の映像。ダンディーなガニアの姿が見られたのは、せめてもの救いだった。