レスラーノート

天龍源一郎

本名:嶋田源一郎
1950年2月2日
福井県勝山市出身
189cm 120kg
血液型:A型

通称
ミスター・プロレス
風雲昇り龍
タイトル歴
3冠ヘビー
世界タッグ
IWGPヘビー
IWGPタッグ
日本J1選手権
PWFヘビー
UNヘビー
インタータッグ WAR世界6人タッグ
NWAミッドアトランティック・タッグ
アジアタッグ
WMGタッグ
ハッスルスーパータッグ
得意技
パワーボム
延髄切り
WARスペシャル
53歳

63年12月、大相撲の二所ノ関部屋に入門。73年の1月場所から幕内力士となる。12年8ヶ月で77場所に出場し、748戦393勝355敗。最高位は西前頭筆頭で幕内在位15場所。 76年9月に角界と決別し、10月15日に全日本プロレス入門。現役の幕内力士のプロレス転向は豊登以来22年ぶりだったため大きな話題となった。30日に渡米し、テキサス州アマリロのファンク一家のもとで修行した。11月13日、テキサス州ヘレフォードでのテッド・デビアス戦でデビュー。15分時間切れの引き分け。マゲをつけたままのデビュー戦だった。いったん帰国して断髪式を行い、再び渡米。 77年6月11日、世田谷大会でジャイアント馬場と組んでマリオ・ミラノメヒコ・グランデ組を相手に日本でのデビュー戦。天龍が回転揺りイス固めでグランデにフォール勝ち。 78年8月から2度目のアメリカ遠征。サンフランシスコ地区で石川孝志と組んで出場。11月からフロリダ地区に出場。ソニー・ドライバーと組んでタイガー服部をマネージャーに、マスクマンコンビ「ライジング・サンズ」としても出場した。 79年4月からジョージア地区に出場。10月に帰国。 80年2月から3度目のアメリカ遠征。ジョージア地区に出場。その後、ノースカロライナのミッドアトランティック地区に定着。 81年2月7日、ミスター・フジと組んでNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得。5月に帰国。7月30日、ビル・ロビンソンと組んでインタータッグ王者の馬場、鶴田組に挑戦。3本勝負を1対2で敗れはしたが、大善戦。その後は馬場、鶴田に次ぐ全日本プロレスナンバー3の位置で活躍しはじめる。 83年度のプロレス大賞で鶴田と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。 84年2月23日、蔵前国技館大会でのUNヘビー級王座決定戦でリッキー・スティムボードと対戦。21分13秒、グラウンド・コブラツイストで勝利してUNヘビー級王座を獲得。初のシングル王座獲得となった。9月に鶴田と組んでインタータッグ王座を獲得。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦にジャンボ鶴田と組んで参戦。12月12日、横浜文化体育館大会での最終戦でスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組と対戦。18分47秒、ハンセンがレフリーを暴行して反則勝ち。世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝した。 85年度のプロレス大賞で鶴田と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。 86年年末の世界最強タッグ決定リーグ戦にジャンボ鶴田と組んで参戦。12月12日、日本武道館大会での優勝決定戦でスタン・ハンセン、テッド・デビアス組と対戦。場外でハンセンのラリアットを鶴田がよけてデビアスに誤爆。8分13秒、リングアウト勝ち。世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝した。86年度のプロレス大賞でMVPを受賞した。

1987

87年6月、全日マットの活性化を目指し、阿修羅原らと天龍同盟を結成。エースの鶴田に対し抗争を開始。8月31日、日本武道館大会で鶴田と4年4ヶ月ぶりにシングル戦。ロープ越しのラリアットを決めて21分35秒にリングアウト勝利。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。10月6日の鶴田との再戦にも勝利して全日本プロレスの中心選手として台頭。87年度のプロレス大賞でMVPを受賞。さらに原と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1988

88年には自ら保持するUN王座、鶴田のインター王座、ハンセンのPWF王座を統一する三冠統一戦を提唱。3月9日に横浜文化体育館大会でハンセンを破りUN、PWF王座の二冠王者となる。4月15日にブルーザー・ブロディと史上初の三冠統一戦。30分、両者リングアウトで引き分けた。7月27日、長野市民体育館大会でスタン・ハンセンを相手にPWF、UN王座の防衛戦。額から大流血しながらも奮闘したが、14分33秒、エプロンからコーナーに登ろうとしたところでラリアットをくらって場外フェンスを越えてはるかかなたまで吹っ飛んでリングアウト負け。二冠王座から転落。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。88年度のプロレス大賞でMVPを受賞。3年連続の受賞となった。

1989

89年2月5日、オハイオ州クリーブランドで行われたWCWの「クラッシュ・オブ・チャンピオンズ」に登場。ロードウォリアーズとNWA世界6人タッグ王者に認定されてスティングマイケル・ヘイズジャンクヤード・ドッグ組を相手に防衛戦を行った。4月18日、大田区体育館大会でダグ・ファーナスと対戦。7分1秒、パワーボムを返されたがラリアットで勝利。同日、鶴田が三冠の初代王者となった。4月20日、大阪府立体育会館大会でジャンボ鶴田の三冠王座に挑戦。16分3秒、パワーボムに敗れた。6月5日、日本武道館大会で鶴田の三冠王座に挑戦。24分5秒、パワーボムで勝利。2代目の三冠王者に君臨。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。7月18日、滋賀県立体育館大会で谷津嘉章を相手に防衛戦。18分57秒、パワーボムで勝利。9月2日、日本武道館大会でテリー・ゴディを相手に防衛戦。12分12秒、パワーボムで勝利。10月11日、横浜文化体育館大会でジャンボ鶴田を相手に防衛戦。22分38秒、新型パワーボムをエビ固めに切り返されてフォール負けして王座転落。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦でスタン・ハンセンと組んで参戦。11月29日、札幌中島体育センター大会でのリーグ戦で馬場、木村組と対戦。入場時にトペスイシーダを決めて馬場を戦線離脱させた。ハンセンと共に木村の額を叩き割ってラッシュ。応急手当を受けた馬場がコーナーに立つまでに木村をKOさせた。孤立無援の馬場を攻めたて、最後は20分22秒、天龍がパワーボムで馬場に勝利。日本人初の馬場からのフォール勝ち。馬場にとっては4年5ヶ月ぶりのピンフォール負けとなった。12月6日、日本武道館大会での最終戦でジャンボ鶴田、谷津嘉章組と対戦。28分57秒、ハンセンがラリアットで谷津に勝利。世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝。同時に世界タッグ王座を獲得した。

1990

90年3月6日、日本武道館大会でテリー・ゴディ、スティーブ・ウイリアムス組を相手にタッグ王座の防衛戦。17分6秒、ウイリアムスのデスロックに天龍が敗れて王座転落。4月13日、東京ドームでの日米レスリングサミットでランディ・サベージと対戦。10分49秒、延髄斬りからのパワーボムで勝利。4月19日、横浜文化体育館大会でジャンボ鶴田の三冠王座に挑戦(鶴田との最後の対戦)。12分32秒、バックドロップホールドに敗れた。鶴田との通算対戦成績は天龍の3勝4敗2分け。同月に全日本プロレスを退団。5月にSWSに移籍。契約金は3億円とも言われている。SWSではエースとして活躍。10月19日、横浜アリーナ大会のメインでジョージ高野と対戦。13分2秒、パワーボムで勝利。12月7日、大阪府立体育館大会でのトーナメント1回戦でテッド・デビアスと対戦。14分54秒、首固めでフォール勝ち。同日の決勝で北尾光司と対戦。9分56秒、ボディスラムを切り返しての片エビ固めでフォール勝ち。

1991

91年1月8日、露橋スポーツセンター大会のメインでキング・ハクと対戦。12分26秒、パワーボムで勝利。2月7日、長崎国際体育館大会のメインでウォーロードと対戦。12分24秒、ダイビングエルボードロップで勝利。4月1日、神戸ワールド記念ホール大会でランディ・サベージと対戦。8分3秒、パワーボムで勝利。6月11日、大阪府立体育館大会で佐野と対戦。7分48秒、パワーボムで勝利。9月18日、長野市民体育館大会のメインでデイビーボーイ・スミスと対戦。11分10秒、パワーボムで勝利。10月28日、長崎国際体育館大会のメインでキング・ハクと対戦。14分36秒、パワーボムで勝利。10月29日、福岡国際センター大会のメインで谷津嘉章と対戦。15分48秒、パワーボムで勝利。10月30日、熊本市体育館大会のメインでジョージ高野と対戦。11分6秒、パワーボムで勝利。11月8日、函館市民体育館大会のメインでケリー・フォン・エリックと対戦。9分11秒、ラリアットで勝利。11月10日、札幌中島体育センター大会のメインで阿修羅原と対戦。15分19秒、パワーボムで勝利。12月12日、SWSの東京ドーム大会でハルク・ホーガンと対戦。真っ向勝負を挑む。試合中盤にジャンピング・ニーバットの着地で左ヒザを痛めたホーガンを攻めて、パワーボムでホーガンを追いこんだ。ホーガンの完全に決まった必殺技レッグドロップ2発とアックスボンバー1発をカウント2で返す健闘を見せたが、最後は13分57秒、アックスボンバー2連発に敗れた。この試合はプロレス大賞のベストバウトに選ばれた。

1992

92年2月12日、後楽園ホール大会でハーキュリーズと対戦。8分10秒、ラリアットで勝利。6月にSWSが解散。7月にWARを設立。12月14日、新日本プロレスの大阪府立体育会館大会で越中詩郎と対戦。20分42秒、パワーボムで勝利。

1993

93年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会のメインで長州力と対戦。18分14秒、パワーボムで勝利。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。新日本プロレスとの対抗戦では、橋本蝶野藤波らを撃破。

1994

94年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会のメインでアントニオ猪木と対戦。試合中にチョークスリーパーで失神。腕ひしぎ逆十字で指を脱臼させられた。15分56秒、パワーボムで勝利。馬場、猪木からフォールを奪った唯一の日本人レスラーとなった。3月2日、WARの両国国技館大会で阿修羅原と組んでFMWの大仁田厚ターザン後藤組と対戦。後藤にビール瓶で殴られて流血。18分13秒、大仁田のサンダーファイヤーパワーボムに天龍がフォール負け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。5月5日、大仁田との決着戦として、FMWの川崎球場大会でノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチで対戦。パワーボムの連発で快勝する。

1995

95年10月29日、後楽園ホール大会で冬木弘道と対戦。13分20秒、延髄斬りからのパワーボムで完勝。

1996

96年4月29日、新日本プロレスの東京ドーム大会で藤波辰爾と対戦。9分16秒、ラリアットで勝利。8月17日、UWFインターの神宮球場大会で佐野と対戦。8分59秒、パワーボムで勝利。9月11日、UWFインターの神宮球場大会のメインで高田延彦と対戦。19分30秒、パワーボムを脇固めに切り返され、最後は腕固めに敗れた。この試合でプロレス大賞のベストバウトを獲得した。9月23日、WARの後楽園ホール大会のメインでビガロと対戦。15分58秒、ムーンサルトプレスを狙ってコーナーに上がったビガロに逆転のパワーボムを決めて勝利。

1998

98年1月、荒谷を破り初代J1王者に輝く。2月にWARが活動停止。フリーとなる。4月より平成維震軍と共闘し、7月には越中と組みIWGPタッグ王座を獲得。8月8日、新日本プロレスの大阪ドーム大会で橋本真也を相手にJ1王座の防衛戦。14分12秒、パワーボムで勝利。

1999

99年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会で天山小島組を相手にタッグ王座の防衛戦。16分35秒、天山のダイビングヘッドバットに越中が敗れてタッグ王座から転落した。4月10日、新日本プロレスの東京ドーム大会で藤波辰爾と組んで佐々木健介、越中詩郎組のIWGPタッグ王座に挑戦。17分33秒、越中のパワーボムに藤波が敗れた。5月3日、新日本プロレスの福岡国際センター大会で武藤敬司のIWGP王座に挑戦。25分37秒、ムーンサルトプレスに敗れた。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。10月11日、新日本プロレスの東京ドーム大会で佐々木健介と対戦。14分49秒、ノーザンライトボムで勝利。12月10日、新日本プロレスの大阪府立体育会館大会で武藤のIWGP王座に挑戦。26分32秒、ノーザンライトボムで勝利。IWGPヘビー級王座を獲得した。

2000

00年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会のメインで佐々木健介を相手に防衛戦。14分43秒、ノーザンライトボムに敗れて王座転落。7月に全日本プロレスに復帰。10月28日、日本武道館大会での王座決定トーナメント決勝で川田利明と対戦。26分28秒、ノーザンライトボムで勝利。三冠王座を獲得した。

2001

01年3月3日、横浜文化体育館大会で太陽ケアを相手に防衛戦。18分39秒、ラリアットで勝利。4月、チャンピオンカーニバルに優勝。6月8日、日本武道館大会で武藤を相手に防衛戦。23分24秒、ムーンサルトプレスに敗れて王座転落。7月14日、日本武道館大会で安生洋二と組んで太陽ケア、ジョニー・スミス組の世界タッグ王座に挑戦。22分58秒、安生がスパインバスターでスミスに勝利。世界タッグ王座を獲得した。9月2日、大分県立荷揚町体育館大会で荒谷信孝と対戦。5分54秒、ラリアットで勝利。9月8日、日本武道館大会で武藤、ケア組を相手にタッグ王座の防衛戦。20分15秒、天龍がノーザンライトボムでケアに勝利。10月8日、後楽園ホール大会でアジアタッグ王者の嵐、北原組と組んで川田、荒谷組とジョニー・スミス、ジョージ・ハインズ組を相手に8人タッグマッチで両タッグ王座の防衛戦。15分30秒、安生が顔面ニーリフトで荒谷に勝利。10月22日、全日本プロレスの新潟市体育館大会で武藤、太陽ケア組を相手にタッグ王座の防衛戦。19分51秒、ケアのハワイアンクラッシャーに安生が敗れて王座転落。10月27日、日本武道館大会で太陽ケアと対戦。11分35秒、ノーザンライトボムで勝利。11月24日から始まった世界最強タッグ決定リーグ戦に冬木弘道と組んで参戦。5勝2敗でリーグ戦を突破。12月7日、日本武道館大会での決勝トーナメント1回戦で武藤敬司、太陽ケア組と対戦。14分30秒、武藤のフランケンシュタイナーに冬木が敗れた。

2002

02年1月11日、大阪市中央体育館大会で本間朋晃と対戦。2分32秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。2月11日、豊橋市総合体育館大会で保坂秀樹と対戦。6分3秒、ラリアットで勝利。2月24日、日本武道館大会で小島聡と対戦。17分51秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。3月23日から始まったチャンピオンカーニバルに参戦。開幕戦の後楽園ホール大会でマイク・ロトンドと対戦。2分9秒、ラリアットで勝利。3月27日、岡山・卸センターオレンジホール大会でスティーブ・ウイリアムスと対戦。6分32秒、毒霧からのラリアットで勝利。3月31日、石川県産業展示館3号館大会で荒谷信孝と対戦。7分5秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。4月1日、長岡市厚生会館大会で武藤敬司と対戦。14分16秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。4月3日、気仙沼市総合体育館大会でジョージ・ハインズと対戦。6分54秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。4月6日、函館市民体育館大会で太陽ケアと対戦。15分17秒、足4の字固めで勝利。6戦全勝でリーグ戦を突破。4月10日、月寒グリーンドーム大会での決勝トーナメント1回戦でマイク・バートンと対戦。5分38秒、バートンカッターに敗れた。4月13日、日本武道館大会で武藤敬司を相手に三冠王座決定戦。19分38秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。三冠王座を獲得した。7月17日、大阪府立体育会館大会で小島聡を相手に防衛戦。28分55秒、パワーボムで勝利。7月20日、日本武道館大会で太陽ケアと対戦。15分15秒、H5O(ハワイアン・ファイブ・アウト)に敗れた。8月30日、日本武道館大会で馳浩と対戦。14分37秒、コーナー2段目からの垂直落下式ブレーンバスターで勝利。10月14日、愛知県体育館大会で武藤敬司と対戦。16分36秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。10月27日、日本武道館大会でムタを相手に防衛戦。17分12秒、ムーンサルトプレスに敗れて王座転落。11月23日から始まった 世界最強タッグ決定リーグ戦にテンタと組んで参戦。5勝2敗に終わった。

2003

03年1月3日、後楽園ホール大会で渕正信と組んで嵐、荒谷信孝組のアジアタッグ王座に挑戦。24分35秒、荒谷のムーンサルトプレスに渕が敗れた。2月8日、後楽園ホール大会で荒谷信孝と対戦。5分10秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。2月10日、名古屋国際会議場イベントホール大会で保坂秀樹と対戦。3分23秒、アバラ折りで勝利。2月11日、KBSホール大会で土方隆司と対戦。2分25秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。2月14日、佐世保市体育文化館大会で本間朋晃と対戦。3分12秒、ラリアットで勝利。2月15日、諸富町文化体育館大会で平井伸和と対戦。7分33秒、変型垂直落下式ブレーンバスターで勝利。2月16日、博多スターレーン大会で宮本和志と対戦。11分43秒、ラリアットで勝利。2月17日、鹿児島アリーナ大会で奥村茂雄と対戦。8分39秒、53歳で勝利。3月1日、横浜アリーナで行われたWJプロレスの旗揚げ戦のメインで長州力と対戦。7分53秒、ラリアット2連発に敗れた。3月15日、WJプロレスの後楽園ホール大会のメインで長州力と対戦。10分27秒、53歳で勝利。3月16日、宮城県スポーツセンター大会のメインで長州力と対戦。8分8秒、53歳で勝利。長州との対戦は、旗揚げ戦から6連戦が予定されていたが、第3戦が終わった時点で天龍の欠場により中止された。4月19日、WJプロレスの後楽園ホール大会で越中詩郎と対戦。12分9秒、53歳で勝利。5月4日、WJプロレスの神戸ワールド記念ホール大会で鈴木健想と対戦。12分5秒、53歳で勝利。5月31日、WJプロレスの広島サンプラザホール大会で佐々木健介と対戦。3分42秒、ストラングルホールドγに敗れた。6月8日、横浜文化体育館大会で石狩太一と対戦。4分33秒、パワーボムで勝利。6月13日、愛知県体育館大会で河野真幸と対戦。7分34秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。6月29日、北海道立総合体育センター大会で大仁田厚と組んで長州力、越中詩郎組と電流爆破タッグデスマッチ。7分50秒、天龍が53歳で越中に勝利。7月13日、闘龍門の博多スターレーン大会で堀口元気と対戦。5分、ラリアットで勝利。7月20日、WJプロレスの両国国技館大会でWJ最強者決定トーナメントに参戦し、1回戦で大森隆男と対戦。15分14秒、アックスボンバーに敗れた。7月31日、WJプロレスの船橋市立総合体育館サブアリーナ大会で矢口壹琅と対戦。6分37秒、ラリアットで勝利。8月3日、WJプロレスの駒沢オリンピック公園体育館大会で石井智宏と対戦。3分45秒、ラリアットで勝利。8月21日、WJプロレスの大阪府立体育会館大会で長州力と組んでWMGタッグ王者決定トーナメントに準決勝から参戦し、大森隆男、鈴木健想組と対戦。12分26秒、天龍が53歳で健想に勝利。同日の決勝で越中詩郎、新崎人生組と対戦。15分10秒、長州がサソリ固めで人生に勝利。WMGタッグ王座を獲得した。9月22日、WJプロレスの岐阜産業会館大会で木村浩一郎と対戦。6分35秒、53歳で勝利。9月23日、WJプロレスのキラメッセぬまづ大会で矢口壹琅と対戦。11分2秒、ダイビング・エルボードロップで勝利。11月4日、WJプロレスの古川町農業者トレーニングセンター大会で安生洋二と対戦。8分58秒、ラリアットで勝利。11月5日、WJプロレスの石川県産業展示館2号館大会で木村浩一郎と対戦。5分28秒、ラリアットで勝利。12月27日、 WMFの後楽園ホール大会のメインでマンモス佐々木と対戦。13分11秒、53歳で勝利。

2004

04年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会で中西学と対戦。10分20秒、フィッシャーマンズスープレックスに敗れた。1月18日、大阪府立体育会館大会のメインで川田の三冠王座に挑戦。17分59秒、垂直落下式ブレーンバスターに敗れた。2月15日、新日本プロレスの両国国技館大会でIWGPヘビー級王者決定トーナメントに参戦し、1回戦で蝶野正洋と対戦。6分25秒、顔面へのサッカーボールキックでレフリーストップ勝ち。同日の準決勝で棚橋弘至と対戦。10分32秒、53歳の2連発で勝利。同日の決勝で天山広吉と対戦。13分1秒、ダイビング・ヘッドバットに敗れた。2月22日、全日本プロレスの日本武道館大会で渕正信と対戦。10分43秒、パワーボムで勝利。2月29日、新日本プロレスの名古屋レインボーホール大会で蝶野正洋と対戦。9分29秒、レフリー暴行により反則勝ち。3月21日、新日本プロレスの尼崎市記念公園総合体育館大会で安田忠夫と対戦。6分56秒、53歳で勝利。3月28日、新日本プロレスの両国国技館大会で中西学と組んで鈴木みのる、高山善廣組のIWGPタッグ王座に挑戦。15分26秒、鈴木のスリーパーホールドに中西が敗れた。5月22日、全日本プロレスの後楽園ホール大会で渕正信と組んでザ・グレート・コスケ獅龍組のアジアタッグ王座に挑戦。21分43秒、渕がバックドロップで獅龍にフォール勝ちし、アジアタッグ王座を獲得。6月12日、全日本プロレスの愛知県体育館大会で佐々木健介、中嶋勝彦組を相手にタッグ王座の防衛戦。14分4秒、渕が首固めで中嶋にフォール勝ち。7月26日、新日本プロレスの後楽園ホール大会で長井満也、成瀬昌由組を相手にタッグ王座の防衛戦。18分17秒、天龍が53歳で成瀬に勝利。8月7日から始まったG1クライマックスに参戦。開幕戦の相模原市立総合体育館大会で鈴木みのると対戦。13分1秒、53歳で勝利。8月8日、大阪府立体育会館大会で永田裕志と対戦。11分28秒、バックドロップホールドに敗れた。8月9日、神戸ワールド記念ホール大会で吉江豊と対戦。4分7秒、ダイビング・ボディプレスに敗れた。8月10日、愛知県体育館大会で中邑真輔と対戦。14分43秒、ラリアットで勝利。8月11日、石川県産業展示館・4号館大会で蝶野正洋と対戦。38秒、パワーボムで勝利。8月13日、両国国技館大会で柴田勝頼と対戦。7分15秒、柴田への急所蹴りからレフリーにも張り手をくらわせ反則負け。8月14日、両国国技館大会でブルー・ウルフと対戦。6分9秒、首固めでフォール勝ち。リーグ戦は4勝3敗に終わった。8月15日、両国国技館大会での決勝トーナメント1回戦で佐々木健介と対戦。8分11秒、53歳で勝利。同日の準決勝で棚橋弘至と対戦。6分34秒、首固めにフォール負け。9月16日、新日本プロレスの宮城県スポーツセンター大会で蝶野正洋と対戦。15分25秒、シャイニング・ケンカキックに敗れた。10月9日、新日本プロレスの両国国技館大会で柴田勝頼と対戦。4分45秒、ビール瓶攻撃で反則負け。10月11日、全日本プロレスの後楽園ホール大会でNOSAWA、MAZADA組を相手にタッグ王座の防衛戦。19分38秒、渕がバックドロップ4連発でNOSAWAに勝利。11月3日、新日本プロレスの両国国技館大会で長井満也、成瀬昌由組を相手にタッグ王座の防衛戦。19分28秒、長井のストレッチプラムに渕が敗れて王座転落。11月13日、新日本プロレスの大阪ドーム大会で柴田勝頼と対戦。9分9秒、グーパンチで勝利。

2005

05年5月11日、ドラゴンゲートの後楽園ホール大会でマグナムTOKYOとランバージャックデスマッチ。8分2秒、ラリアットで勝利。7月18日、ノアの東京ドーム大会で小川良成と対戦。10分27秒、ラリアットで勝利。8月4日、WRESTLE−1の両国国技館大会でWRESTLE−1 GPに参戦し、1回戦で村上和成と対戦。7分29秒、村上がレフリーに割れたビール瓶を突き刺して反則勝ち。2回戦への進出は辞退した。9月11日、ドラゴンゲートの博多スターレーン大会でマグナムTOKYOと対戦。17分17秒、53歳で勝利。9月17日、ドラゴンゲートの札幌テイセンホール大会でマグナムTOKYOと対戦。12分17秒、ラリアットで勝利。10月8日、ノアの後楽園ホール大会でKENTAと対戦。11分38秒、ラリアットで勝利。10月16日、ドラゴンゲートの神戸サンボーホール大会でマグナムTOKYOと対戦。6分58秒、インディアンデスロックで勝利。11月3日、ハッスルの横浜アリーナ大会で安田忠夫と組んで田中将斗、金村キンタロー組を相手にタッグ王座決定戦。10分9秒、天龍が53歳で金村に勝利。ハッスルスーパータッグ王座を獲得した。11月5日、ノアの日本武道館大会で三沢光晴と対戦。14分27秒、ランニングエルボーに敗れた。11月27日、ノアの札幌メディアパーク・スピカ大会で潮崎豪と対戦。13分29秒、53歳で勝利。11月からハッスルに出場。

2006

06年1月15日、後楽園ホールで行われたキングスロードの旗揚げ戦のメインで宮本和志と対戦。16分9秒、53歳で勝利。2月5日、ドラゴンゲートの博多スターレーン大会でマグナムTOKYOと対戦。6分39秒、AVスタープレスに敗れた。3月5日、ハッスルの横浜文化体育館大会で坂田亘、崔領二組を相手にタッグ王座の防衛戦。10分56秒、坂田のダイビング・フットスタンプに安田が敗れて王座転落。3月12日、ハッスルの愛知県体育館大会で坂田亘と対戦。10分45秒、53歳で勝利。3月25日、ドラゴンゲートの福井市体育館大会でマグナムTOKYOと対戦。12分34秒、ラ・マヒストラルにフォール負け。7月27日、後楽園ホールでのWARのファイナル興行で風間ルミと組んでマグナムTOKYO、イーグル沢井組と対戦。6分15秒、イーグルのサンダーファイアー・パワーボムに風間が敗れた。同大会のメインで北原光騎、折原昌夫、ドン・フジイと組んで越中詩郎、齋藤彰俊、小原道由、青柳政司組と対戦。15分23秒、天龍が53歳で青柳に勝利。8月9日、ハッスルの後楽園ホール大会で佐藤耕平と対戦。9分41秒、延髄斬りからの53歳で勝利。9月30日、ドラゴンゲートの大阪府立体育会館・第2競技場大会でドン・フジイと対戦。11分22秒、ノド元への逆水平チョップで勝利。10月1日、ドラゴンゲートのサンドーム福井大会で望月成晃と対戦。13分45秒、足4の字固めで勝利。10月6日、ハッスルの大阪府立体育会館大会で坂田亘と対戦。7分43秒、53歳で勝利。10月20日、ドラゴンゲートの後楽園ホール大会でドン・フジイと対戦。7分31秒、グーパンチで勝利。11月8日、ドラゴンゲートの後楽園ホール大会で望月成晃と対戦。7分55秒、53歳で勝利。11月23日、ドラゴンゲートの大阪府立体育会館大会で神田裕之と対戦。7分50秒、ラリアットで勝利。

2007

07年6月14日、ハッスルの後楽園ホール大会でRGと対戦。9分43秒、テキサスクローバーホールドで勝利。6月17日、ハッスルのさいたまスーパーアリーナ大会でHGとマスカラ・コントラ・ハドゲラ。11分55秒、ゲイ道リラーにフォール負け。ハードゲイのコスチュームを手渡された。7月11日、ハッスルの後楽園ホール大会のメイン終了後にハードゲイのコスチュームで登場。ハッスル軍に加入した。9月22日、ハッスルの大阪府立体育会館大会で大谷晋二郎と対戦。7分32秒、53歳で勝利。

2008

08年2月21日、ハッスルの後楽園ホール大会でジャイアント・バボと対戦。5分38秒、ラリアットで勝利。7月6日、ハッスルの福岡国際センター大会でハッスルGPに参戦し、1回戦でボノちゃんと対戦。5分57秒、ボディプレスに敗れた。8月21日、ハッスルの後楽園ホール大会で越中詩郎と対戦。9分14秒、ブレーンバスター4連発に敗れた。10月26日、ハッスルの宇都宮市清原体育館大会でアン・ジョー司令長官、ゴールデン・カップス1号と対戦。6分23秒、ダイビング・エルボードロップで1号に勝利。

2009

09年7月5日、ハッスルの福岡国際センター大会での「アルマゲドンサバイバー」に出場し、先鋒として川田利明と対戦。7分4秒、ストレッチプラムに敗れた。9月27日、ノアの日本武道館大会(三沢の追悼興行)に出場し、小川良成鈴木鼓太郎と組んで佐々木健介、森嶋猛中嶋組と対戦。逆水平チョップなど力強い動きで見せ場を作ったが、21分5秒、森嶋のバックドロップに鼓太郎がフォール負け。10月10日、ハッスルの両国国技館大会でハッスル連合軍対RIKI軍団の5対5の勝ち抜き戦に先鋒として登場。小路晃と対戦し、7分12秒、53歳で勝利。次にレネ・デュプリと対戦し、41秒、スモールパッケージホールドにフォール負け。この大会を最後にハッスルが崩壊。東急田園都市線の桜新町駅近くに寿司処「しま田」を開店していた(09年12月に閉店)。ハッスル崩壊後は試合から遠ざかる。

2010

10年2月22日、新宿FACEでの折原の20周年興行のメインで平井と組んで折原、川田組と対戦。12分14秒、天龍がパワーボムで折原にフォール勝ち。3月18日、リアルジャパンプロレスの後楽園ホール大会で初代タイガーマスクと対戦。ゴツゴツした打撃戦を展開したが、12分1秒、チキンウイング・フェイスロックに敗れた。4月19日、新宿FACEで天龍プロジェクトの旗揚げ戦。メインで高木三四郎と組んでディック東郷組と対戦。20分3秒、天龍が投げっぱなしパワーボムで東郷に勝利した。5月4日、横浜文化体育館での大日本プロレス旗揚げ15周年記念興行で岡林と組んで関本大介、佐々木義人組と対戦。関本とのチョップ合戦などで真っ向勝負を展開。16分27秒、関本のラリアットに岡林が敗れたが、試合後に「今日はプロレスを存分に満喫したよ。これを一生懸命、がんばってくれよ。またやろう!」とマイクで語った。8月15日、新日本プロレスの両国国技館大会でのセミファイナルで川田、4代目タイガーマスクと組んで長州、マシンAKIRA組と対戦。08年8月以来の新日本プロレス参戦ということで注目されたが、試合前から痛めていた左ヒザを序盤で悪化させ、動きに全く精彩がなかった。試合は8分17秒、飛びつき回転十字架固めでタイガーマスクがAKIRAに勝利した。

2011

11年2月4日、後楽園ホールでの安田忠夫の引退興行に参戦し、メインで安田と対戦。4分36秒、足4の字固めでTKO勝ち。6月2日、ユニオンプロレスの新宿FACE大会で菊地毅と対戦。入場と同時にゼロ戦キックで奇襲されたが、場外戦での強烈なイス攻撃で主導権を握り、最後は7分15秒、ラリアットで勝利。6月9日、SMASHの後楽園ホール大会でのSMASH初代王座決定トーナメント1回戦でマイケル・コバックと対戦。5分56秒、スモールパッケージホールドでフォール勝ち。8月11日、SMASHの後楽園ホール大会でのトーナメント2回戦でスターバックと対戦。7分33秒、パイルドライバーに敗れた。9月8日、SMASHの後楽園ホール大会で百田光雄と対戦。7分19秒、ラリアットで勝利。11月10日、後楽園ホールでデビュー35周年記念興行を開催。第1試合で百田、グレート小鹿と組んで泉田、菊地、志賀組と対戦。10分53秒、百田がサムソンクラッチで志賀にフォール勝ち。メインで鈴木みのる諏訪魔と組んで佐々木健介、小島太陽ケア組と対戦。歴代三冠王者がそろった試合となった。61歳にして健介と壮絶なチョップ合戦を展開。逆水平チョップは天龍は合計63発、健介は合計74発。奮闘したが、29分42秒、健介のブレーンバスターに天龍が敗れた。12月5日、記者会見を開き、腰部脊柱管狭窄症の治療を理由に長期欠場を表明した。

2012

12年2月23日と3月8日に腰部脊柱管狭窄症の大手術。7月24日に再手術。12月29日、天龍プロジェクトの後楽園ホール大会で復帰。高山、鈴木みのる、森嶋と組んで永田中西、天山、小島組と対戦。19分54秒、永田の延髄斬りからの腕固めに天龍が敗れた。

2013

13年4月26日、天龍プロジェクトの新宿FACE大会で百田と対戦。7分38秒、ラリアットで勝利。5月11日、日本武道館での小橋建太引退記念大会で小川良成と組んで森嶋、井上雅央組と対戦。8分38秒、小川が横入り式エビ固めで井上にフォール勝ち。10月1日、天龍プロジェクトの新木場1stRING大会で河上隆一と対戦。8分22秒、レフリー暴行で反則負け。12月7日、ノアの有明コロシアム大会で田上明の引退試合に出場。藤波、志賀、井上雅央と組んで田上、森嶋、杉浦平柳組と対戦。10分40秒、田上のオレが田上に雅央が敗れた。

2015

15年2月9日、後楽園ホールで会見を開き、11月の興行を最後に現役引退することを表明した。4月3日、天龍プロジェクトの新宿FACE大会のメインで越中と組んで高木三四郎、竹下組と対戦。8分35秒、天龍が「63歳」(垂直落下式変型ブレーンバスター)からのラリアットで高木に勝利。4月30日、新木場1stRING大会のメインで拳剛と対戦。12分30秒、53歳改め65歳で勝利。11月15日、両国国技館で引退興行を開催。メインでオカダ・カズチカと対戦。18発の逆水平チョップ、15発のグーパンチ、WARスペシャル、DDT、延髄斬り、投げ捨てパワーボム、53歳を出したが、最後は17分27秒、ドロップキックからのレインメーカーに敗れた。試合後、テリー・ファンクスタン・ハンセンから花束を受け取り、「みなさん、おれは本当に腹一杯のプロレス人生でした。もうこれ以上望むものは何もありません!ありがとうございました」とマイクし、10カウントゴングを聞いた。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。

2019〜

19年9月9日、事務所から「2019年4月中旬から2度にわたり自宅において体調不良を訴えたため検査・入院をいたしましたところ小脳梗塞の診断が下されました。そこから、症状などが出る機会が多く、3度の入院を経て、幸いな事に現在、目立った後遺症などは現れておらず、完治はしないものの、症状としては安定しております」と発表された。 22年9月2日、天龍プロジェクトの公式サイトが「精密検査の結果、広範囲にわたる頸髄損傷の診断が下され、現在、入院しておりますことをご報告申し上げます。長年の現役生活において負ってきた身体への負担がこの程、症状として顕著に出てきたもので新しい怪我などではございません」と発表。 23年6月22日、退院。



スクラップブック
――試合を組み立てたり、淀みなく技を出せるようになったと感じたのはいつ頃ですか?
「たぶんね、ロビンソンと組んで馬場さんとジャンボとインター・タッグをやった時(81年7月30日=後楽園ホール)だと思いますよ。”ああ、プロレスって好きなことをやって、それでいいんじゃない?”って。それまでは巧くやろうとか、客にウケてやろうとか、自分が綺麗に見えることとかね、そういうのが心の片隅にあったと思うのよ。それはなぜかって言ったら、相撲から転向したっていうのが付いて回ってたんだよね、俺の中では。だから、良く観られようとか、向こう受けするようなことばっかり考えてたの。でも、そのインター・タッグの試合では、自分の気持ちをそのままぶつけていけば、お客さんはわかってくれるんだなっていうのが大きかった。それから・・・今もそうだけどね、ただ気持ちの赴くままですよ」(中略)「あの時はダラスのフリッツ・フォン・エリックのところに行くことが決まってたから、吹っ切れていた部分もあったんだけどね。あの試合は”好きなことやっていいよ”ってロビンソンが言ってくれたことが大きかったよ。俺としては”それだったら、後は修正してくれるだろう”って(苦笑)。今にして思うと、俺がコンビのリーダーだったら、あのジャンボの性格だから斜に構えてやられたと思うんだけど、パートナーがロビンソンだったからジャンボも馬場さんも真っ向から来てくれて試合が面白く成立したと思うんだよ。俺がロビンソンのパートナーに名乗り出たんだけど、あれはデカイ一言だったね。これは俺のプロレス人生を左右した試合だったよ」
(「Gスピリッツ」10号(08年12月)の天龍のインタビューより)


源ちゃんは相撲からプロレス転向して(76年10月)、髷をつけたまま、すぐに巡業に付いてきたんだけど、みんなが触らなかったっていうか、喋らなかったから「これはいけないな」と思って俺が練習を教えたんだよね。一応、幕内だから粗末に扱うようなことはしなかったけど、謙虚だったよ(笑)。(中略)フロリダで一緒だったのは79年だったかな。源ちゃん、苦労したよ。かわいそうにね。その頃、俺とマサやんはトップ取ってて11ヶ月休みなしだったけど、源ちゃんは前座。第1〜第2試合ぐらいでさ。マサやんがスケジュールの合間に新日本に戻った時には俺のパートナーが空席になるんだけど、そこに源ちゃんが入ることはなかった。あの頃の源ちゃんは一番苦労した時期だったんじゃないの。途中でイジケたみたいなところもあったしね。気難しいところがあるじゃん、あの人。向こうにいた時、源ちゃんに「腐ったってしょうがないじゃん!」って言ったことあるよ。(中略)でも、あの苦しいときにちゃんとアメリカンプロレスを覚えたから、龍原砲がうまくいったんだと思うよ。基礎はそこにあるんだろうね。あとは長州たちとやってからだね、目の色が変わったのは。「向こうが倒れねぇなら、こっちも倒れねぇ」って意地になってたからさ、それが龍原砲を生んだのかもしれないよ。昔は遠慮するところがあって「もっと行け!」みたいなところもあったけど、龍原砲になってガラッと変わった。完璧になったもんね。試合の組み立ても巧くなったし、やっぱり経験よ。俺も試合しながら燃えてたから。龍原砲の時は最高だったね、メリハリとタイミングが。例えばドロップキック食っても、バーンと受ける時は受ける。ある時はロープに引っ掛かってグラグラってなる。リングの中の位置によって、受け身の取り方が違ってくるっていうのが本当のプロ。同じ受け身ばっかりじゃなくてね。源ちゃんは器用だし、プロレスセンスもジャンボより全然上だし、リアルだよ。この前、海野興行(8月26日=新日本プロレス・後楽園ホール)で久々にアッパーとチョップで源ちゃんとやり合ったけどさ、やっぱりいいね(苦笑)。ちょっと勘違いしちゃったよ。「まだ、やれるんじゃねぇか」って(笑)。久々にチョップを食らって目が覚めたね。
(「Gスピリッツ」9号(08年10月)のザ・グレート・カブキのインタビューより)


(スポーツ報知【ヒロ斉藤40周年ヒストリー】(18)2019年10月18日12:06配信より)
「天龍さんは顔面を靴で思いっきり蹴ってくるんです。それで、やられて、そのまま痛がってるとずっと蹴ってくるんですね。だけど、自分がこの野郎ってやり返すとそれ以上は蹴ってこないんです。天龍さんがやってきたら、倍にして返せばやってこない。それが天龍さんのやり方だったと思います。蹴りだけじゃなくてチョップをやられて、胸が切れたこともありますし、あの人は、チョップをのどに入れてくるんです。だから、天龍さんがのどに入れてくるから、やられた選手は同じように天龍さんののどにチョップを入れるんです。それをやられたから今、天龍さんは、あんな声になったんだと思います(笑)」