レスラーノート

ディック・マードック

DICK MURDOCH

本名:リチャード・マードック
1946年8月16日
テキサス州ワックハイチ出身
186cm 120kg

通称
狂犬
タイトル歴
WWF世界タッグ
セントラルステーツタッグ
デトロイト地区認定世界タッグ
UNヘビー
WWCユニバーサルヘビー
得意技
ブレーンバスター
カーフブランディング
エルボードロップ

明るい性格と破天荒な荒くれファイトで活躍。得意技のカーフブランディングとは仔牛の焼き印押しの意味。父は名レスラーのフランキー・マードック。少年時代からレスリング教育を受け、海兵隊除隊後の65年にプロレス入り。アマリロのファンク道場の一員となる。この年のNWA新人賞を受ける。 68年2月、日本プロレスに初来日。10月にフロリダ地区に転戦。ダスティ・ローデスとテキサス・アウトローズを結成し、各地区で暴れ回った。11月にセントラルステーツタッグ王座を獲得。 70年3月にデトロイト地区認定世界タッグ王座を獲得。 71年12月4日、日本プロレスの宮城県営スポーツセンター大会でアントニオ猪木のUN王座に挑戦。1本目は16分3秒にフォール勝ち。2本目は2分37秒にリングアウト負け。3本目は3分37秒にフォール負けした。 73年6月、国際プロレスに来日。10月より全日本の常連となり人気を誇った。 74年8月9日、全日本プロレスの蔵前国技館大会でマスクマンのザ・トルネードに変身し、ザ・デストロイヤーの「覆面十番勝負」第2戦で対戦。1本目をネックブリーカードロップで勝利。2本目は足4の字固めに敗れた。3本目は凶器攻撃で反則負け。11月5日、大田区体育館大会でジャイアント馬場のPWF王座に3本勝負で挑戦。1本目は12分58秒、ブレーンバスターで勝利。2本目は7分5秒、32文ドロップキックに敗れた。勝負をかけた3本目は2分3秒、回転エビ固めにフォール負けした。

1979

79年5月8日、全日本プロレスの千葉県立体育館大会でハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に60分3本勝負で挑戦。1本目は14分45秒、ブレーンバスターで勝利。2本目は20分24秒、ダイビング・ヘッドバットに敗れた。3本目は時間切れの引き分けに終わった。

1980

80年2月23日、全日本プロレスの鹿児島県体育館大会でジャンボ鶴田のUN王座に挑戦。1本目は17分20秒にフォール勝ち。2本目は2分15秒にフォール負け。3本目は4分3秒にフォール勝ち。UNヘビー級王座を獲得した。2月27日、大村市体育館大会でタイガー戸口を相手に防衛戦を行い、1対1のまま60分時間切れ引き分けで王座防衛。3月5日、黒磯市公会堂大会でジャンボ鶴田を相手に防衛戦。1本目は21分55秒にフォール負け。2本目は3分30秒にフォール勝ち。3本目は2分25秒に首固めに敗れてUN王座から転落。

1981

81年、新日本プロレスに引き抜かれた。年末、新日本プロレスのMSGタッグリーグ戦にスタン・ハンセンと組んで参戦。リーグ戦を同点2位で終了。12月10日、大阪府立体育会館大会で優勝決定戦進出をかけて猪木、藤波組と対戦。12分47秒、両者リングアウト。再試合が行われ、マードックがブレーンバスターで藤波を担ぎあげたところで猪木がドロップキック。3分25秒、そのまま藤波に覆いかぶされてフォール負け。

1982

82年3月、新日本プロレスの第5回MSGシリーズに参戦。7勝2敗4引き分けで14人中4位に終わった。年末、MSGタッグリーグ戦にマスクド・スーパースターと組んで参戦。8チーム中4位に終わった。

1983

83年の年末にMSGタッグリーグ戦にアドリアン・アドニスと組んで参戦。リーグ戦を2位で突破。12月8日、蔵前国技館大会での優勝決定戦で猪木、ホーガン組と対戦。11分10秒、猪木の延髄斬りにアドニスが敗れた。

1984

84年4月17日、アドリアン・アドニスと組んでWWF世界タッグ王座を獲得。年末にMSGタッグリーグ戦にアドニスと組んで参戦。リーグ戦を1位で突破。12月5日、蔵前国技館大会での優勝決定戦で猪木、藤波組と対戦。33分31秒、猪木の卍固めにアドニスが敗れた。

1986

86年、新日本プロレスでのIWGPリーグ戦でブロック優勝して決勝進出。6月19日の決勝戦でアントニオ猪木と対戦して敗退。

1989〜

89年のFMW参戦後はインディを主体に活動。WCWにもスポット的に参戦した。92年10月25日、プエルトリコのWWCでWWCユニバーサルヘビー級王座を獲得。 96年5月23日、藤原組の両国国技館大会で藤原喜明とシングルで対戦。脇固めに敗れた。これが日本での最後の試合となった。6月13日、アマリロで大会をプロモートし、アメリカでの1年ぶりの試合を行う。30分もの間、奮闘。6月14日、テキサス州キャニオンの自宅で心臓麻痺により49歳で死去。



スクラップブック
――ヘビー級に転向して、一番勉強になったレスラーは誰ですか?
「それはやっぱりディック・マードック。“プロレスとは?”っていうことを教わったね。ヘッドロックを取る、タックルに行く、投げる、そういうプロレスの基本的な動きをすべて習得していたのがマードックなんだよね。それはもう本当に細かいところまで。どう言えばいいかわからないんだけど・・・プロレスって、“何でも有り”じゃないんだよ。自分の個性を出して蹴りを多くやる選手もいるだろうけど、プロレスって基本的な動きがあるんだよね。やっぱり攻めちゃいけないところがある。思い切り蹴っていいところ、蹴っちゃいけないところ、腕の取っていいところ、取っちゃいけないところ。それを把握して、お互いに任せた上で試合ができるわけで。我々がやっているのは殺し合いじゃないし、どこかで暗黙の信頼感がないと絶対にいい試合は成り立たないの。マードックは未熟な選手には厳しい男だったけど、瞬時のうちにお互いの動きを読み合うことができたし、身を任せられる相手だった。何回やっても気持ちがいい試合ができたし、試合で教えられたね。ホントの意味での試合巧者だと思う。気持ちがいいから“このまま終わらずに、ずっと試合をしていたい!”という感覚すら持ったから。それは長州とやっていても、そういう感覚になったことがあるよ」
(Gスピリッツ Vol.19 藤波辰爾のインタビューより)


アンドレ、ホーガン、ベイダー・・・。藤波辰爾が即答した「最高の外国人レスラー」は?
(2021年5月16日11:00配信 webスポルティーバより)
数ある名勝負を演じてきた藤波が"最高の外国人レスラー"を選ぶとしたら――。そんな問いに、藤波は「ディック・マードックです」と即答した。
 父親もプロレスラーで、子供の頃から指導を受けていたマードックは、19歳でドリー&テリーの"ファンク一家"に師事。1965年にデビューし、1968年に初来日する。以降は国際プロレス、全日本プロレス、そして1980年代には新日本でもトップ選手として活躍した。
 藤波はマードックのことを、「寝てよし、立ってよし。レスリングもうまいオールラウンドなレスラー」と絶賛する。実力はありながら、タイトルなどにこだわらないマイペースな性格で、時には猪木など周囲をイラつかせることも。だが、滞空時間が長い垂直落下式ブレーンバスターなどで観衆を魅了した。
 マードックが多くのファンに愛されたのは、高い技術があったからだけではない。藤波との試合では、場外乱闘から戻る際に互いのパンツをつかんで尻を出すなど、パフォーマンスでも会場を沸かせた。1996年6月15日に、心臓麻痺のため49歳の若さで急逝したが、その姿は多くのプロレスファンの記憶に刻まれている。
「プロレスは、どんな戦いやパフォーマンスをすればいい試合なのか、という決まりはありません。常に会場に来るファンも違いますし、どんなことで盛り上がるか読めない、イロハがない世界なんです。そのリングで、自分がどう動いたらいいかを的確につかまないといけないんですが、その点、マードックはファンをくぎづけにする感性が抜群でした。彼は本当に"最高"のレスラーでしたよ」