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長州力本名:吉田光雄(旧戸籍名は郭光雄)1951年12月3日 山口県徳山市(現・周南市)出身 184cm 115kg 血液型:O型 |
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通称
革命戦士
タイトル歴
UWA世界ヘビー
WWFインター IWGPヘビー IWGPタッグ PWF世界ヘビー インターナショナルタッグ 得意技
リキラリアット
サソリ固め |
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入場曲は「パワー・ホール」(作曲は平沢進)。桜ヶ丘高校時代からレスリングを始める。専修大学時代はアマレスで活躍。アマレス部の主将を務めた。フリースタイル、グレコローマンの2種目の100キロ級で活躍。71年に全日本学生選手権でフリースタイル90キロ級に出場し優勝。72年のミュンヘン五輪に韓国代表として出場。フリースタイルの90キロ級に出場し、3回戦で敗退。
73年、全日本選手権で、フリー、グレコ共に100キロ級に出場し優勝。全日本学生選手権でもフリー、グレコ共に90キロ以上級に出場し優勝。12月、新日本プロレスに入門。
74年8月8日、日大講堂のエル・グレコ戦でデビュー。デビュー戦ではサソリ固めで勝利した。デビュー後すぐに海外遠征。
77年2月に帰国。4月にファン公募で長州力に改名。79年6月には坂ロと組んで北米タッグ王座に君臨。
1982 82年4月、メキシコでUWA世界ヘビー級王座を獲得。帰国直前にベルトを失う。10月に帰国。「おまえのかませ犬じゃない!」と藤波に宣戦布告。1983 83年4月3日、蔵前国技館大会で藤波のWWFインターナショナルヘビー級王座に挑戦。16分39秒、ラリアットで勝利。WWFインターナショナルヘビー級王座を獲得。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。5月にマサ斎藤、キラー・カーン、小林邦昭、アニマル浜口、谷津嘉章、タイガー戸口、寺西勇と維新軍を結成。1984 84年8月2日、蔵前国技館大会でアントニオ猪木と対戦。29分39秒、ラリアットをかわされた直後にグランドコブラツイストにフォール負け。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。 9月21日、谷津、浜口、小林、寺西と共に新日本プロレスを離脱して新日本プロレス興行に移籍。9月25日、永源遙、栗栖正伸、保永昇男、仲野信市、新倉史祐が移籍。9月26日、キラー・カーンが移籍。10月9日、新日本プロレス興行がジャパンプロレスリング株式会社に社名変更。10月23日、笹崎伸司が移籍。10月25日、レフリーのタイガー服部が移籍。11月1日、マサ斎藤が移籍。12月、ジャパン・プロレスを旗揚げして全日本プロレスに参戦。1985 85年6月27日、ジャパンプロレスリング株式会社の社長に就任。11月4日の大阪城ホール大会で、全日本プロレス対ジャパンプロレスの頂上対決としてジャンボ鶴田とシングルで対戦。一進一退の攻防が続き、40分を過ぎたあたりから長州がスタミナ切れ。鶴田は長州を引っぱるような形で60分フルタイムの引き分けに持ちこんだ。この試合はプロレス大賞の年間最高試合賞を受賞。両者の対戦はその後も行われず、結果的にこの一試合のみに終わった。1986 86年2月5日、札幌中島体育センター大会で谷津と組んで鶴田、天龍組のインタータッグ王座に挑戦。24分1秒、谷津がジャーマンスープレックスで天龍に勝利。インタータッグ王座を獲得。4月5日、横浜文化体育館でAWA、PWF2冠王のスタン・ハンセンに挑戦。試合は18分27秒、ラリアットをレフェリーに誤爆したハンセンの反則負けに終わり、ルールによってAWA王座はハンセンの防衛、PWF王座は長州が獲得した。4月23日、相模原市立体育館大会でリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。21分4秒、両者リングアウトに終わった。1987 87年1月17日、徳山市民体育館大会でカート・ヘニングを相手に防衛戦。8分18秒、ラリアットで勝利。試合後のインタビューで「ジャパンがこの世界で生きていくためには、ジャンボや天龍なり、藤波なりをみんな倒さなきゃならないから」と藤波の名を出して波紋を呼んだ。2月5日、札幌中島体育センター大会で鶴田、天龍組を相手にタッグ王座の防衛戦。17分5秒、天龍のジャーマンスープレックスに谷津が敗れて王座転落。この試合が全日本プロレスでの最後の試合となった。3月23日、ジャパンプロレス本社で副会長の大塚直樹と共に記者会見を開いて全日本プロレスからの離脱と完全独立を表明。3月25日、大阪ロイヤルホテルでの猪木対マサ斎藤戦の調印式で斎藤の代理人として出席。3月28日、シリーズ開幕戦の後楽園ホール大会への来場をマサ斎藤、小林、保永、ストロング・マシン、ヒロ斉藤、笹崎、佐々木健介、寺西、服部と共にキャンセル。ジャパンプロレスが分裂した。5月に新日本プロレスに復帰。1988 88年7月22日、アントニオ猪木に初めてフォール勝ち。1989 89年6月に現場責任者に就任。以後、新日本プロレスで実権を握った。7月12日、大阪府立体育会館大会でサルマン・ハシミコフのIWGP王座に挑戦。7分40秒、ラリアットで勝利。IWGPヘビー級王座を獲得した。8月10日、両国国技館大会でベイダーを相手に防衛戦。10分4秒、回転エビ固めにフォール負けして王座転落。1990 1991 91年8月、第1回G1クライマックスに出場。8月7日、愛知県体育館大会で蝶野正洋と対戦。14分17秒、STFに敗れた。8月9日、両国国技館大会でビガロと対戦。10分10秒、DDT3連発からのフライングボディプレスに敗れた。8月10日、両国国技館大会で橋本真也と対戦。7分50秒、ニールキックをくらってフォール負け。リーグ戦は3戦全敗に終わった。1992 92年1月4日、東京ドーム大会のメインでIWGPヘビー級王者の藤波を相手に、自らのグレーテスト18クラブ王座も賭けてダブルタイトルマッチ。12分11秒、ラリアットで勝利。2冠王となった。8月16日、福岡国際センター大会でグレート・ムタを相手に防衛戦。11分26秒、ムーンサルトプレスに敗れて王座転落。10月8日から始まったSGタッグリーグ戦に橋本真也と組んで参戦し、優勝。1993 93年1月4日、東京ドーム大会のメインで天龍源一郎と対戦。18分14秒、パワーボムに敗れた。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。1994 94年1月4日、東京ドーム大会で藤原喜明と対戦。9分4秒、ラリアットで勝利。1996 96年8月、決勝戦で蝶野正洋にサソリ固めで勝利してG1クライマックス初優勝を達成。その背後には、連戦の疲れを癒すために平田をわざと休ませて不戦勝とさせ、5連戦のうちで1日の休みを取った作戦もあった。9月20日、大阪府立体育会館大会で日米対抗スーパースターズ・トーナメントに参戦。1回戦でスコット・ノートンと対戦。5分41秒、ラリアット2連発に敗れた。1997 97年1月4日、東京ドーム大会のメインで橋本のIWGP王座に挑戦。18分4秒、垂直落下式DDTに敗れた。4月には佐々木と組みIWGPタッグ王座に君臨。1998 98年1月4日、東京ドームで引退試合を行い現役生活にピリオドを打った。引退試合は藤田和之、吉江豊、高岩竜一、獣神サンダーライガー、飯塚高史との5人掛けマッチ。藤田には3分57秒にリキラリアットで勝利。吉江には1分42秒にリキラリアットで勝利。高岩には1分21秒にサソリ固めで勝利。飯塚には2分2秒にアキレス腱固めで敗れた。ライガーには5分9秒にプランチャをはなった後、リキラリアット2連発で勝利した。2000 2001 01年1月4日の東京ドーム大会では新日を解雇された橋本真也との遺恨決着のため試合を行うが両者レフェリーストップで決着はつかず。2002 02年2月1日札幌大会、4月25日徳山大会に単発出場。11月12日、WJプロレスを設立。旗揚げ前の記者会見では「プロレス業界のド真ん中を歩かせてもらいます」と、「ど真ん中」をキャッチフレーズに提唱。2003 03年3月1日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行い、メインイベントで天龍と対戦。リキラリアット2連発で勝利した。天龍との対戦は、旗揚げ戦から6連戦が予定されていたが、第3戦が終わった時点で天龍の欠場により中止。その後、長州も欠場し、初のシリーズだったが暗雲が立ちこめた。その後、WJプロレスは低迷。12月14日、ZERO−ONEの両国国技館大会のメインで長州軍対ZERO−ONEのシングルマッチによる勝ち抜き戦に出場。高岩にラリアットでフォール勝ちして橋本と対戦。右下腿ヒラメ筋不全断裂の重傷で試合に出場していたため防戦一方となり、14分26秒、ひざ十字固めにレフリーストップ負け。2004 04年2月29日、ZERO−ONEの両国国技館大会のメインで橋本と対戦。11分8秒、ミドルキックにフォール負け。7月にWJプロレスの活動休止を表明。8月にWJプロレスの石井智宏、宇和野らと共にRIKIPROを設立。8月19日に後楽園ホールで旗揚げ戦を行なった。2005 05年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会で闘魂杯巴戦に出場。蝶野と対戦し、6分54秒、スライディング式ケンカキックをくらってフォール負け。10月から新日本プロレスの現場監督に復帰。2007 07年7月12日、Zepp Sendai大会で越中詩郎を相手にG1クライマックス出場者決定戦。7分13秒、横入り式エビ固めにフォール負け。2009 09年3月14日、全日本プロレス両国国技館大会で高岩と組んで西村、征矢学組と対戦。長州の全日本プロレス参戦は22年ぶりのことだった。10分13秒、ラリアットで征矢にフォール勝ち。4月12日、ロックアップの後楽園ホール大会で藤波と組んで藤原、大森隆男組と対戦。9分39秒、長州のサソリ固めで藤原に勝利。10月10日、ハッスルの両国国技館大会(ハッスル最後の大会)で、ハッスル連合軍対RIKI軍団の5対5の勝ち抜き戦にRIKI軍団の副将として登場。ハッスル軍大将のマグナムTOKYOと対戦し、雪崩式ブレーンバスター、リキラリアット2発からのサソリ固めで2分4秒にレフリーストップ勝ち。11月、全日本プロレスの最強タッグリーグ戦に征矢学と組んで参戦。86年以来の23年ぶりの最強タッグリーグ戦出場となった。5勝3敗の勝ち点10で3位となり、優勝を逃した。2011 11年1月10日、後楽園ホールでのレジェンド・ザ・プロレスリングの旗揚げ戦のメインで藤波と対戦。会場を埋めつくした超満員のファンの大歓声を受けて奮闘したが、9分29秒、エビ固めに丸めこまれてフォール負け。5月7日、レジェンドプロレスの大阪府立体育会館第2競技場大会で藤波と対戦。観客動員記録となる1500人もの超満員の観客の前で熱戦を展開。10分52秒、雪崩式ブレーンバスターからラリアットを2発決めたが、3発目をブロックされてからの逆さ押さえ込みにフォール負け。9月23日、レジェンドプロレスの名古屋国際展示会議場イベントホール大会で藤波と対戦。10分57秒、リキラリアットで勝利。9月30日、レジェンドプロレスの札幌テイセンホール大会で藤波と対戦。6分45秒、逆さ押え込みにフォール負け。2012 12年1月8日、レジェンドプロレスの後楽園ホール大会で橋本大地と対戦。10分59秒、リキラリアット2連発で勝利。4月20日、後楽園ホールでの藤波の40周年記念興行に出場。メインで藤波、初代タイガーマスクと組んで蝶野、ヒロ斉藤、AKIRA組と対戦。9分24秒、藤波がドラゴンスリーパーでAKIRAに勝利。5月5日、レジェンドプロレスの巌流島大会で大谷と組んで藤波、ヒロ斉藤組と対戦。7分29秒、長州がサソリ固めでヒロに勝利。6月15日、広島グリーンアリーナでの齋藤彰俊の自主興業で藤波、初代タイガーマスクと組んで藤原、カブキ、青柳組と対戦。11分57秒、藤波がドラゴンスリーパーで青柳に勝利。2015 15年11月15日、両国国技館での天龍の引退興行で石井智宏と組んで齋藤彰俊、河上隆一組と対戦。13分46秒、長州のリキラリアットから石井が垂直落下式ブレーンバスターで河上に勝利。2016 16年1月25日、日本武道館で開催された音楽と格闘技の「対決コラボレーション」イベント「GUM ROCK FES.」のメインに登場。音楽の対バン対決(Thinking Dogs対Silent Siren)、東西のアイドル対決(HKT48対乃木坂46)、お笑い芸人とプロレスラーの対決(南海キャンディーズのしずちゃん対スーパーササダンゴマシン)の終了後、メインで藤波と対戦。5分49秒、ラリアット2連発で勝利した。2017 17年10月29日、ドラディションの大阪南港ATCホール大会で藤波、マスカラスと組んで越中、カブキ、AKIRA組と対戦。8分53秒、マスカラスがフライングボディアタックでAKIRAに勝利。2018 18年9月28日、仙台サンプラザホールで行われたみちのくプロレス主催の「昭和プロレスフェスタin仙台」でヒロ斉藤、人生と組んで藤波、東郷、GAINA組と対戦。9分51秒、人生が極楽固めでGAINAに勝利。2019 19年6月26日、後楽園ホールで引退興行を開催。越中詩郎、石井智宏と組んで藤波辰爾、武藤敬司、真壁刀義組と対戦。17分29秒、真壁のダイビング・ニードロップに長州が敗れた。スクラップブック
(2020年8月2日11:03配信 朝日新聞DIGITALより)
長州さんは山口県徳山市(現・周南市)の出身。朝鮮半島出身の両親のもと、在日韓国人2世として生まれ育った。体力に自信があった長州さんは中学で柔道部に所属。このころ開かれた東京オリンピック(1964年)で、日本人選手が活躍する姿に感動し、自らも夢の舞台にあこがれるようになった。 高校からレスリングに転向し、強豪の専修大に進学。3年生の時、ミュンヘンオリンピックを迎えた。長州さんはすでに全日本学生選手権で優勝するなどの実績を出していたが、日本国籍がないことから日本代表にはなれなかった。 それでも夢をあきらめきれず、「たとえ日本代表じゃなくても、どの国でもいい」と、韓国の選考会に急きょ出場、代表の座をつかんだ。 本番ではフリースタイル90キロ級で出場したが、メダルに手は届かなかった。「メダルを取る人は、僕たちよりもまだ何段階も上の練習をやっている。立てた目標に対してはたどり着けたっていう思い」と振り返る。 長州さんは取材に対し、プロレス時代についても振り返った。大学卒業後、アントニオ猪木さん率いる新日本プロレスに入った。アマとプロの違いについて、「練習の厳しさで言ったら断然プロ。お客さんに見てもらってもうけるわけだから、体を作るにもストイックさが求められる」と話した。 その上で、長州さんは「プロレスは表現」と言い、アントニオ猪木さんについて「本当にすごい人。リングの中で戦っているように見えるでしょう」と評価した。 長州さんは19年に現役を引退、それに先立ち、2016年に日本国籍を取得した。「まあ、帰化は終わってるんだけど、そもそも日本に生まれて、日本の教育を受けて、日本の道徳で育ってきて。じゃあ俺、何人になるの?って。もう日本人でしょって」 |
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