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ダイナマイト・キッドDYNAMITE KID本名:トム・ビリントン 1958年12月5日 イギリス・ランカシャー・ゴルボーン出身 180cm 98kg |
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通称
爆弾小僧
タイトル歴
WWFタッグ
英国ライト 英国ウェルター 欧州ウエルター 英連邦ミッド・ヘビー WWFジュニア NWAインタージュニア アジアタッグ NWAパシフィックノースウエストヘビー NWAパシフィックノースウエスト・タッグ 北米ヘビー 得意技
ダイビングヘッドバット
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13才の時にウィンウィックにあるテッド・ベトレーのジムに通いトレーニングを始める。75年にデビュー。イギリスのジョイント・プロモーションで活躍。
77年4月、英国ライト級王座を獲得。
78年1月、英国ウェルター級王座を獲得。3月に欧州ウエルター級王座を獲得。4月にカナダのカルガリーに渡る。NWA世界ジュニアヘビー級選手権でネルソン・ロイヤルと対戦。敗れたが評価を上げる。英連邦ミッド・ヘビー級王座を獲得。10月、ドイツ・ハノーバーに遠征。
79年7月、国際プロレスに初来日。7月19日、北海道・木古内町公民館大会での来日第1戦で寺西勇と対戦。30分時間切れ引き分け。7月20日、大館市民体育館大会で阿修羅原のWWUジュニア王座に挑戦。18分37秒、両者リングアウト。7月22日、村上市体育館大会で原とミッドヘビー級王座とWWUジュニア王座のダブルタイトルマッチ。1R4分のポイント制で、7R時間切れ引き分け。7月25日、三島市体育館大会で原のWWUジュニア王座に3本勝負で挑戦。1対1からの3本目、ブロックバスターに敗れた。8月17日、カナダ・カルガリーで藤波辰巳のWWFジュニア王座に挑戦。20分33秒、両者リングアウト。秋にドイツ・ハノーバーに遠征。
80年1月から新日本プロレスの常連となり藤波、初代タイガーマスクと好勝負を繰り広げた。2月5日、愛知県体育館大会で藤波のWWFジュニア王座に挑戦。14分54秒、回転足折り固めにフォール負け。
81年4月10日、北九州市小倉区西日本総合展示場大会で藤波のWWFジュニア王座に挑戦。18分37秒、アルゼンチンバックブリーカーに敗れた。4月23日、蔵前国技館大会でタイガーマスクのデビュー戦の相手となった。9分29秒、ジャーマンスープレックスに敗れた。
82年1月1日、後楽園ホール大会でタイガーマスクを相手にWWFジュニア王座決定戦。8分31秒、回転エビ固めにフォール負け。1月28日、東京体育館大会でタイガーマスクのWWFジュニア王座に挑戦。12分38秒、ジャーマンスープレックスに敗れた。
83年9月7日、カート・ヘニングを破りNWAパシフィックノースウエストヘビー級王座を獲得。11月12日、ジ・アサシンと組んでカート・ヘニング、バディ・ローズ組を破りNWAパシフィックノースウエスト・タッグ王座を獲得。
84年2月7日、蔵前国技館大会でデイビーボーイ・スミス、ザ・コブラとの三つ巴戦を制し、WWFジュニア王座を獲得。3月9日、カナダ・カルガリーでキラー・カーンを破り北米ヘビー級王座を獲得。9月29日、WWFでテレビデビュー。11月にデイビーボーイ・スミスと全日本プロレスに移籍。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦でデイビーボーイ・スミスと組んで参戦。3勝3敗1引き分けに終わった。
85年6月、マイティ井上を破りNWAインタージュニア王座を獲得。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦でデイビーボーイ・スミスと組んで参戦。2勝1敗1引き分け3リングアウトに終わった。
86年からWWFに従弟デイビーボーイ・スミスとのブリティッシュブルドッグスで登場。4月7日、シカゴでスミスと組んでグレッグ・バレンタイン、ブルータス・ビーフケーキ組を破りWWF世界タッグ王座を獲得。12月13日、オンタリオ州ハミルトン大会でのドン・ムラコ、ボブ・オートン・ジュニア組戦で脊髄、椎間板に重傷を負い、病院に緊急搬送。数日後、6時間の大手術を受けて医師から引退を勧告されるが3ヶ月で復帰。
87年11月にWWFを離脱。
89年1月に全日本プロレスに復帰。4月にジョニー・スミスと組んでアジアタッグ王座を獲得。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦でデイビーボーイ・スミスと組んで参戦。6勝3敗に終わった。
90年年末の世界最強タッグ決定リーグ戦でジョニー・スミスと組んで参戦。5勝7敗に終わった。
91年年末の世界最強タッグ決定リーグ戦でジョニー・スミスと組んで参戦。3勝9敗に終わった。12月6日、全日本プロレスの日本武道館大会で引退試合。世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦がラストマッチとなり、ジョニー・スミスと組んでジョニー・エース、サニー・ビーチ組と対戦。5分51秒、キッドがダイビング・ヘッドバットでビーチに勝利。試合後には全日本プロレスの選手に胴上げされた。
93年7月に復帰。
96年10月10日、みちのくプロレス両国国技館大会で小林邦昭、ドス・カラスと組んでサスケ、初代タイガーマスク、ミル・マスカラス組と対戦。もはや全盛期の体つきではなかったが、サスケにツームストン・パイルドライバーを見せるなど健闘。試合は15分30秒、ドス・カラスがライガーボムでサスケにフォール勝ち。その後はステロイドの影響で車椅子の生活。
18年12月5日、死去。
スクラップブック
とにかく凄かったですね。鋼のような感じで、一発一発の技がビシッ、ビシッときて、技が重いというか痛いというかね。とにかくパワー、瞬発力が違いました。いままでやった選手にはまったくないような感じで、対戦した選手のなかではいちばんパワーがあったかもしれないですね。ああいう体つきの選手はスタミナがないことも多いんですけど、彼はスタミナもありましたからね。対戦していて楽しかったですね。何試合かいい試合続いていたときは、ものすごく楽しかったですよ。彼との対戦には、すごく手応えがありました。一度、彼のツームストーンパイルドライバーを食らって頚椎捻挫をしたこともありましたけど、技への思いっきりの良さは天下一品でしたね。あの思いっきりの良さだから、F−1ドライバーとかにでもなればよかったのにって(笑)。いま思い返せば。彼とのデビュー戦は運命的だったんでしょうね。本当にダイナマイト・キッドがいたからこそのタイガーマスクだったと思いますし、それほどの存在でした。
(週刊プロレスNo.1516 タイガーマスクのインタビューより) −−75年デビューのキッドと初対面した時のことは憶えていますか? 「ある日、彼は師匠のテッド・ベトレーに連れられて、ヨークシャーの会場に来ました。それがキッドとの出会いですね。クリスマスの数日前だったと思います。特に彼らのことは気にかけていなかったんですが、ある瞬間にライトの点いたクリスマスツリーの陰に人影を感じたんです。そこに隠れるようにポツンといたのがキッドでした。“そんなところで何をしているんだ?”と聞いたんですが、彼が何を言っているのかよくわかりませんでしたね。“ファッキン○○”と、一人でブツブツつぶやいていましたよ(笑)。ヘンな奴だなというのがその時の印象です。ただし、リングに上がると人が変わったように凄い試合をしていました。こいつは将来、大物レスラーになると思いましたね」 −−抗争は、どのようにして始まったんですか? 「77年5月にシュルーズベリーでやったシングルマッチが両者KOになったんですよ。事実上、ここからキッドとの抗争が始まったことになりますね。その前には、タッグでも対戦しています。私の方がキャリアでは若干先輩という図式ですね。にもかかわらず、彼には一切の遠慮がなかった。私がコーナーポストに叩きつけられて、両脚を開いた状態でコーナーに追い込まれると、彼は容赦なく脚をめがけて打撃をぶち込んできました。怪我をしていることを知っていたら、敢えてそこを攻めてくる。しかも、休みなしにね。こちらが何とか彼の攻撃を止めようとしても、どんどん攻めてくる。そこから先は、もう“バトル”ですよ。本当に激しいバトルでした。そんなことがあって臨んだシングルなので、当然試合は荒れますよね。向こうの思うつぼだったのかもしれないけど、それにうまいこと乗ってしまった。もしかしたら、最初は観客不在のやり合いだったかもしれません。でも、やられたら、こちらも後には引けない。正直言って、私は彼のことが大嫌いでしたよ。扱いにくい人間でしたね(苦笑)」 (Gスピリッツ Vol.41 マーク・ロコのインタビューより) ダイナマイト・キッドの意外な素顔 気難しいようにみえて・・・手品披露する「お茶目さ」も (2020年8月22日10:00配信 東スポWeb「和田京平 王道を彩った戦士たち」より) 今のマット界に一番必要な存在だと思う。ジュニアの体でヘビー級と互角に渡り合ったでしょう。全体的に選手のサイズが小さくなり、階級の垣根が消えた今だからこそ、キッドを見たいなと。どの団体でもトップを張れたんじゃないかな。 ブレーンバスターの速さとか試合内容は革命的だった。技は少ないけどパンチ、キックでも一撃一撃に全身の力が入ってスピーディー。ジュニアのスタン・ハンセンだよね。相手のことなんか構っちゃいない。とにかく自分の技を決めるのが最優先だった。プライドというか我を貫くというか、誇りに満ちていた。でも独善的に見えて、実は相手が受け身を取れるように技を仕掛けていた。まあ、うまかったよ。 気難しいとか頑固とかよく言われるでしょ。実際は違うんだ。ものすごいおちゃめでさ。よく(リングアナウンサーの仲田)龍と控室に行って遊んだよ。キッドは手品を見せるわけ。手のひらのコインを隠したり、トランプの数字を当てたり簡単なものなんだけど、俺たちを驚かせてはうれしそうに笑うんだ。俺も逆にくわえているたばこの火を消す簡単な手品を見せると、目を丸くして驚いてね。次のシリーズには違う手品を覚えてくるんだ。楽しかったね。 選手のサイズも大きいし、攻めがいがあるから全日本が性に合ったんじゃないかな。リングを下りるとピリピリしてファンを近づけなかったけれど、簡単な日本語をたくさん覚えていてね。試合中に日本人レスラーが気に入らない動きをすると「アホ」とか「バカ」とか聞こえないようにつぶやくんだ。あれはおかしかったなあ。 (2018年12月5日の死去は)早すぎたね。全力で現役を駆け抜けた。小さな体でヘビー級と戦うんだから、相当無理はしていた。だからハンセンとのシングル(1991年3月23日後楽園のチャンピオン・カーニバル)は忘れられない。デイビーボーイ・スミスとのコンビ(ブリティッシュ・ブルドッグス)ではヘビーとやってたけど、まさかカーニバルに出るとは思わなかったし、試合もハンセン相手にガンガンいって引かなかった。すごいなと思ったよ。キッドが移籍してきた時、三沢(光晴)はまだ2代目タイガーマスクだったから「何だこいつ、タイガーだって?」程度にしか見てなかったんじゃないかな。 今なら立派な3冠ヘビー級王者として君臨できるでしょう。これから昔の映像を見る人は、そういう観点を持って見てくれたら。短い現役生活だったけど、永遠に忘れられない選手ですね。 藤波辰爾と激闘した外国人レスラー。大流血したチャボ戦とキッドの強力ヘッドバットを語る (2021年5月15日11:00配信 webスポルティーバより) 「キッドは体が小さいぶん、全身を大きく見せるような感じで体ごとぶち当たってきました。技の出し惜しみをせず、攻めも容赦がなくて、自分の体を犠牲にしてでも突っ込んでくる迫力がありましたね。 初対戦のカルガリーでの試合前も、最初は『こんな細い選手で大丈夫かな』と思いましたよ。でも、試合が始まると圧力がすごくて、『ウカウカしていられないぞ』と本気になりました」 藤波が、強烈に印象に残っている必殺技として挙げたのは、トップロープからのダイビングヘッドバットだ。 「彼のダイビングヘッドバットは、トップロープからリングの真ん中を通り越して、より遠くまで飛んできました。それを決められた時はとんでもない衝撃がくるんですけど、僕がよけた時も、キッドは自分の頭をものすごい勢いでマットにぶつけていた。それには驚きましたね。あれだけ、自分の体をプロレスのために犠牲にした選手は記憶にありません」 そんなキッドも、チャボに続くようにして、2018年12月5日に60歳でこの世を去った。 「体はジュニアだったけど、攻撃力はヘビー級。それ以上かもしれない。どんな時でも全力で戦ったキッドは、すべてのプロレスラーの模範になるすばらしい選手でした」 |
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