48年に宮城県仙台市に引き揚げ。製本所で働いていたが、58年12月、大相撲の二所ノ関一門・湊川部屋に入門。62年に二所ノ関部屋に移籍。四股名は仙台。幕下二枚目まで昇進したが、66年5月場所を最後に廃業。10月12日、蔵前国技館での東京プロレス旗揚げ戦でデビュー。デビュー当時は仙台強のリングネームで活躍。若手時代から気性が荒く、日本側に不利な判定が下った場合などはレフェリーに突っかかる場面がよく見られた。67年2月の東京プロレス崩壊後、国際プロレスに入り、大剛鉄之介に改名。ファイト内容をAWA王者のマッドドッグ・バションに認められ、73年3月17日にバションに連れられてカナダに初の海外遠征。ケベック州モントリオールのバションの団体GWA(グランプリ・レスリング・アソシエーション)に出場し、トーキョー・ジョーのリングネームでカナダ一帯を荒らしまわる。74年に後輩のグレートサキ(デビル紫)と組んでカルガリー地区のインターナショナルタッグ王座を獲得。3月18日にサーキット中の交通事故で片足切断を余儀なくされ、レスラーを引退。デビル紫の運転する車が凍結路面にスリップし、車の点検中に同じ箇所でスリップした別の車が突っ込んできた事故で、一時は生命さえ危ぶまれた。その後は75年3月からカルガリーにあるスチュ・ハートのスタンピードレスリングでブッカーとして活躍。同時期に国際プロレスのIWAカナダ支部長となりブッカーとして活躍。国際プロレスにジプシー・ジョーなどの外人レスラーを次々に来日させた。カルガリーに遠征してきた阿修羅原、アニマル浜口、将軍KYワカマツを育成した。81年8月の国際プロレス崩壊後は日本マットと関係がなくなる。84年7月に国際プロレスの吉原代表が新日本プロレスの顧問に就任。10月に渡米してきた吉原に要請されて新日本プロレスのブッカー兼北米支部長に就任。若手の育成係として手腕を発揮。カルガリーで馳浩、新倉史裕、西村修、天山広吉、吉江豊、鈴木健想、真壁伸也などにコーチした。演歌が好きで細川たかしの大ファン。06年に新日本プロレスの北米支部が閉鎖。ジムは存続し、フリーのブッカーとして活躍。17年11月4日、カナダ・カルガリーで大腸ガンのため死去。
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