ダークロHP / レスラーノート

タイガー・ジェット・シン
TIGER JEET SINGH


本名:ジャグジート・シン・ハンス
1944年
インド・パンジャブ州アブリッツアール出身
190p 120kg
タイトル歴:NWFヘビー アジア・ヘビー 北米タッグ UWA世界ヘビー インタータッグ インターナショナルタッグ(トロント版)  USヘビー(トロント版)
得意技:コブラクロー

「インドの狂虎」の異名をもつ悪役レスラー。サーベルを振りまわしながらの入場が有名。65年にシンガポールでデビュー。66年にカナダのトロント地区に渡りヒンズー・ハリケーンの名で暴れ回った。同年7月31日、フレッド・アトキンスと組んでインターナショナルタッグ王座を獲得。67年6月11日、ジョニー・バレンタインを破りUSヘビー級王座を獲得。7月23日にはトロントでNWA世界王者のジン・キニスキーに挑戦した。68年5月26日、トロントでワイルド・ブル・カリーと組んでインターナショナル・タッグ王座2度目の獲得。トロントではベビーフェースとして活躍し、ザ・シークと抗争。73年5月に新日本プロレスに初来日。11月、新宿の路上でアントニオ猪木を襲って因縁を作った。猪木との抗争により新日本プロレスのトップヒールとなる。74年6月26日、大阪府立体育会館大会で猪木のNWF王座に挑戦。1本目は11分25秒、両者リングアウト。2本目はショルダー・アームブリーカーを連発されて右腕を折られ、9分46秒にレフリーストップ負け。実際には骨折はしていなかったようだが、「腕折り事件」と後々まで語られ、猪木との因縁試合における象徴的な試合となった。75年3月、猪木を降しNWFヘビー級王座を獲得。76年7月、坂口を破り初代アジア・ヘビー級王座を獲得。77年2月、上田馬之助とのコンビで坂口、小林組から北米タッグ王座を獲得。79年8月26日、日本武道館で行われた「プロレス夢のオールスター戦」のメインでブッチャーと組んで馬場、猪木組と対戦。13分3秒、猪木の逆さ押さえ込みにシンがフォール負け。80年1月、メキシコシティでカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。81年2月15日、エル・トレオでカネックに敗れて王座転落。81年5月、新日本プロレスの第4回MSGシリーズに参戦。6月4日、蔵前国技館大会で決勝進出をかけて猪木と対戦。18分34秒、両者リングアウト。ランバージャックデスマッチで延長戦が行われ、3分15秒、反則負けに終わった。7月、全日本プロレスに登場。83年7月、上田とのコンビを再結成し、馬場、鶴田組を破りインタータッグ王座を獲得。全日本プロレスでは89年の来日が最後。90年に新日本プロレスに登場。グレーテスト18クラブ王者となった長州力と抗争。91年2月5日、札幌中島体育センター別館大会で武藤敬司と対戦。9分42秒、サーベル攻撃で反則負け。2月6日、札幌中島体育センター別館大会で長州と対戦。7分26秒、首固めにフォール負け。3月21日、東京ドーム大会で長州力とノーレフリーの完全決着ルールで対戦。カミソリ攻撃で流血させたが、11分7秒、後頭部へのラリアットをくらってKO負け。7月25日、葛飾区総合スポーツセンター大会で武藤と対戦。5分43秒、反則負け。10月13日、幕張メッセ大会でスコット・ノートンと対戦。大流血させて追いこんだが、6分58秒、アバランシュ・ホールドをくらってフォール負け。12月18日、山口県の巌流島で、東京ドーム大会での猪木戦出場を賭けて馳浩と対戦。無観客試合として行われ、71分24秒、KO負け。その後、92年6月にFMW、93年にNOW、95年にIWAジャパンなどを転戦。FMWでは大仁田厚と電流爆破マッチを行った。95年11月30日、IWAジャパンの札幌中島体育センター別館大会で、ターザン後藤とノーロープ有刺鉄線金網デスマッチで対戦。サーベルで流血させたが、ミートフォークで反撃され、10分11秒、スリーパーホールドにTKO負け。ブッカー、プロモーターとしても活躍。97年に息子のタイガー・アリ・シンをWWF入りさせた。99年にIWAジャパンに久々に来日。04年10月23日、愛知県体育館での「ハッスル6」のメインイベントで小川直也と対戦。サーベルやイスや鉄柵で小川を流血させ、ターバンを首巻きつけたり必殺のコブラクローを炸裂させて試合を優位に進めたが、9分49秒、STOボンバーで敗れた。08年7月6日、ハッスルの福岡国際センター大会でのハッスルGP1回戦でボブ・サップと対戦。ネックハンギングをくらったがセコンドのジョー之助が竹刀攻撃。サップに白い粉をまいて、レフリーにも暴行し、3分53秒、反則負け。11月には息子と共にハッスルに来日。11月20日、後楽園ホール大会で息子と組んで天龍越中組と対戦。入場時に息子と共に客席に乱入し、場外戦で試合開始。レフリーへのフォーク攻撃で4分48秒、反則負け。11月22日、水戸市民体育館大会では息子と組んでボノちゃん(曙)、あーちゃん(荒谷)組と対戦。4分43秒、あーちゃんへのシンの凶器攻撃で反則負け。09年7月26日、ハッスルの両国国技館大会でブッチャーと組んでHG、RG組と対戦。ブッチャーの地獄突きがシンに誤爆し、7分35秒、RGにそのままフォール負け。試合後にブッチャーと乱闘。7月30日、ハッスルの後楽園ホール大会でブッチャーと対戦。延々と場外戦を続け、5分18秒、両者反則に終わった。10年12月3日、IGFの両国国技館大会に来場し、猪木のデビュー50周年を祝い、リング上で握手。
シン 兄弟は6人いる。一番上に姉がいて、その下に4人の兄弟、一番下は妹だ。私は4番目の子どもで、三男になる。
―― インドは貧富の差が激しいと聞きますが、あなたの家庭は?
シン 父が会社を経営していたし、貧しいことはなかった。そのままインドにいても、いい暮らしができただろう。(中略)
―― インドでプロレスラーとしてデビューしたんですか?
シン ノー。プロレスラーになったのはカナダに来てからだ。
―― カナダに移住したのはなぜ?
シン 国外でチャレンジしたかったというのがその理由だ。しかしアジアのほかの国はまだ発展していなかったし、すでにアメリカは多くの人が成功のチャンスをつかみに行っていた。カナダはアメリカに比べると若い国で、チャンスが残っていると思ったからだ。
―― なるほど。ちなみにカナダに渡ったのはいつですか?
シン 1965年。カナダに着いたとき、私はポケットに6ドルしか持ってなかった。(中略)だから、すぐに稼ぐ必要があった。その後、フレッド・アトキンスのコーチを受けるようになったんだが、アトキンスの練習は厳しかった。スクワット何千回、プッシュアップ何百回・・・それを毎日続ける。私はアトキンスに5年間師事したが、これほど長く続いたレスラーはいなかったんじゃないか。ほとんどのレスラーはすぐに彼のもとを飛び出した。ジャイアント・ババもアトキンスのコーチを受けたが、5年も一緒に練習したわけじゃないだろ。(中略)
―― では、カナダでのプロレス・デビューはアトキンスの紹介で?
シン イエス。アトキンスがフランク・タニー(トロント地区のプロモーター)に紹介してくれた。インド人レスラーはいなかったし、すぐにメープルリーフ・ガーデン(トロントのスポーツの殿堂)で試合が組まれるようになった。フランク・タニーには感謝している。彼は私に最初のビッグチャンスを与えてくれた。彼はなにより誠実で、人をだますことはなかった。だから私は100%の力で彼に応えた。
(週刊プロレスNo.1567 インタビューより)

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