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ジョニー・スミスJOHNNY SMITH本名:ジョン・ヒンドレー 1965年8月7日 イギリス・ランカシャー・ウォワーイングトン出身 180cm 112kg |
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タイトル歴
世界タッグ
アジアタッグ コモンウェルズ・ミッド・ヘビー 得意技
ブリティッシュ・フォール
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イギリスの伝統ランカシャーレスリングの数少ない使い手。全日本プロレスの常連外人レスラーで、中堅の位置付けにいた。職人的なレスリング技術ゆえ、会場人気が高かった。近眼のためコンタクトをつけて試合をしていた。視力は右がマイナス1.75で、左がマイナス2。レスラーだった叔父のエドワード(テッド)・ベトリーからレスリングを教わる。82年1月、フィット・フィンレーが経営するイギリスの「ジョイント・プロモーション」でデビュー。16歳だった。デビュー当時のリングネームはジュニア・ロイヤル。ヴィック・フォークナーと組んでいたバート・ロイヤルがケガで欠場したため、その代役として、バートの弟というふれこみで出場した。その後、首を痛めて欠場。8週間の入院の後、ドイツに渡る。ドイツでのリングネームはジョン・サヴェージ。叔父からスチュ・ハートに紹介されて85年にカナダ・カルガリー地区に転戦。デイビーボーイ・スミスの従兄弟というふれこみでジョン・スミスに改名。ダイナマイト・キッドに師事する。87年6月、新日本プロレスに初来日。89年2月から全日本プロレスに登場。91年4月にダイナマイト・キッドとアジアタッグ王座を獲得。キッド引退後も実力に裏付けされたレスリングで常連外人となる。95年ごろからファイトスタイルをカナダで使っていたアメリカンスタイルからイギリスで使っていたランカシャースタイルに変更。この変更の背景にはゲーリー・オブライトのアドバイスもあったという。オブライトとは以前からカルガリーで知り合っていた。オブライトからUWFインターの試合を見せられてレスリング重視のスタイルを勧められた。98年1月9日、鹿児島県立体育館大会で、ウルフ・ホークフィールド(ジム・スティール)と組んでアジアタッグ王者の秋山、大森組に挑戦。24分33秒、スミスのジャーマンスープレックスからのリバースDDTで大森にフォール勝ち。第63代のアジアタッグ王者となり、通算3度防衛。レスラー間の信頼も厚く、ベイダーのパートナーや太陽ケアのパートナーとしてもいい仕事をした。99年11月の世界最強タッグ決定リーグ戦ではベイダーと組んで参加。リーグ戦で3位になる健闘を見せた。00年1月10日、熊本市総合体育館大会でベイダーと組んで小橋、秋山組の世界タッグ王座に挑戦。17分10秒、秋山のエクスプロイダーにスミスが敗れた。同年に新しくできたノアに誘われたが、全日本プロレスがギャラを引き上げたりした結果、全日本プロレスに残留。大量離脱後の全日本プロレスを支えた。01年1月14日後楽園ホール大会では太陽ケアとのコンビで川田&渕との世界タッグ王者決定戦に勝利し第43代世界タッグ王者となった。3回の防衛に成功したものの、天龍&安生組の前に破れる。03年1月3日、全日本プロレスの後楽園ホール大会で小島聡の持つMLW王座に挑戦するが、19分11秒、ラリアットに敗れた。
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