ダークロHP / レスラーノート

ジェリー・モロー
GERRY MORROW


本名:ジェラー・エティファー
1949年9月10日
フランス領マルティニーク島出身
180cm 107kg
タイトル歴:インターナショナル・タッグ WWCカリビアン・タッグ GPWタッグ NWAカナディアン・タッグ NWAカナディアン・ヘビー(バンクーバー版) 北米タッグ(AGPW版) CRMW北米ヘビー IWA世界タッグ(マニトバ州版)
得意技:ドロップキック ジャンピング・ヘッドバット

ジャック・クレイボーンの実弟。 17才の時に兄のジャック・クレイボーンの招きで姉のエブリンと共にパリに移住。その後、家族もパリに移住。70年ごろ「ミッション・ジム」でアマレスのトレーニング。 71年6月、国際プロレスの留学生として初来日。森昌子の大ファンでいつも「せんせい」を口ずさんでいた。7月6日、東京体育館大会でエティフィア・ジェラールの名でデビュー。佐野浅太郎と対戦し、10分時間切れ引き分け。次のシリーズから稲妻二郎に改名。9月10日、刈谷市体育館大会で鶴見と対戦し、回転エビ固めでフォール勝ちして初勝利を挙げた。 73年夏、大宮で交通事故に遭い、膝を骨折して欠場。10月、寺西勇戦で復帰。 74年6月、外国人選手が不足したためマスクマンのザ・ワイルド・ヌウに変身。11月、外国人選手が不足したためマスクマンのザ・キラーに変身。 75年3月、兄のジャック・クレインボーンが来日し、タッグで活躍。来日していたマッドドッグ・バションに彼の運営するGPW(グランプリ・レスリング)に誘われた。4月、カナダ・モントリオール地区に兄と共に遠征。現地では本名のジェラルド・エティフィアの名で出場した。5月25日、オンタリオ州スカボローでクルト・フォン・ヘス、フライング・コッツマン組を破りGPWタッグ王座を獲得。8月26日、モントリオールでセーラー・ホワイト、プリティボーイ・アンソニー組に敗れて王座転落。11月、カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに兄と共に転戦。カルガリーではジェリー・モローと名のった(兄はエディ・モロー)。12月26日、ミスター・ヒト、ギル・ヘイズ組を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。 76年2月20日、リッパー・コリンズ、ドン・ガニア組に敗れて王座転落。同月、国際プロレスに復帰。3月13日、堺町体育館大会で寺西勇を相手にIWA世界ミッドヘビー級王座決定戦。互いに1本ずつ取りあった3本目、10分3秒、ジャーマンスープレックスに敗れた。3月28日、蔵前国技館での全日本プロレスと国際プロレスの対抗戦で園田一治と対戦。5分35秒、ジャンピング・ヘッドバットで勝利。8月、カルガリーに遠征。8月27日、エディと組んでヒト、浜口組を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。9月24日、リッパー・コリンズ、ラリー・シャープ組に敗れて王座転落。10月15日、エディと組んでコリンズ、シャープ組を破りタッグ王座を奪回。12月3日、キューバン・アサシンズに敗れて王座転落。 77年2月、兄と共に国際プロレスに登場。第6回IWAワールド・シリーズに参戦し、1勝5敗1引き分けで8人中7位に終わった。2月27日、後楽園ホール大会でのIWA世界タッグ王座決定トーナメント1回戦で兄と組んでサンダー杉山剛竜馬組と対戦。15分35秒、剛の回転エビ固めにクレインボーンがフォール負け。4月、カナダ・バンクーバー地区に兄と共に遠征。7月11日、兄と組んでテキサス・アウトロー、ジョー・ポラルディー組を破りNWAカナディアン・タッグ王座を獲得。8月22日、テキサス・アウトロー、ブラック・アベンジャー(ムース・モロウスキー)組に敗れて王座転落。その後は兄と別れて9月にドイツに遠征。ハノーバー・トーナメントに参戦。その後、カルガリーに遠征。 78年2月17日、ジョージ・ウェルズと組んでミッシェル・マーテル、ヒト組を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。4月、国際プロレスに参戦。7月28日から国際プロレスの韓国遠征に参加。8月2日、ソウル文化体育館大会で大木金太郎のインターナショナルヘビー級王座に挑戦した。その後、カルガリーに転戦。 79年1月、国際プロレスに参戦し、3シリーズに出場した。その後、カルガリーに転戦。11月、国際プロレスに参戦。 80年4月、国際プロレスに参戦。5月16日の大会が国際プロレスでの最後の出場となった。国際プロレス崩壊後、ジェリー・モローの名でカナダ国籍を取得。 83年7月に全日本プロレスに登場。7月19日、大阪府立体育会館大会でジプシー・ジョーと組んでマイティ井上阿修羅原組のアジアタッグ王座に挑戦。18分20秒、井上のジャーマンスープレックスにモローが敗れた。8月1日、後楽園ホール大会でテリー・ファンクと対戦。13分23秒、テキサスクローバーホールドに敗れた。 84年2月、全日本プロレスに来日。2月16日、長崎国際体育館大会でトーマス・アイビーと組んで原、石川敬士組を相手にアジアタッグ王座決定戦。16分16秒、原のバックドロップにアイビーが敗れた。2月26日、大阪府立体育会館大会でリッキー・スティムボートと対戦。19分49秒、ダイビング・ボディアタックに敗れた。8月に新日本プロレスに登場。MSGタッグリーグ戦でのパートナーとなった。 84年11月、新日本プロレスに2度目の来日。アンドレ・ザ・ジャイアントと組んで第5回MSGタッグリーグ戦に参戦。3位でリーグ戦を終えた。 85年5月、バンクーバー地区でエルトン・スタントンを破りNWAカナディアン・ヘビー級王座を獲得。6月、新日本プロレスに来日。 87年1月、新日本プロレスにレフリーとして来日。 87年11月11日、モンタナ州グレートフォールズでマッカン・シンと組んでインターナショナルタッグ王座を獲得。その後、キューバン・コマンドに改名し、キューバン・アサシンと組んで活躍。 89年6月、カナダの東海岸にあるAGPWでアサシンと組んで北米タッグ王座を獲得。その後、アサシンとプエルトリコのWWCに遠征し、「ロス・メルセナリオス(外国人部隊)」を名のり活躍。10月7日、キューバン・アサシンと組んでWWCカリビアンタッグ王座を獲得。 90年10月、SWSに来日。 93年2月4月、PWCに3回来日した。5月30日、オリエンタルプロレスの後楽園ホール大会に来日。 95年1月27日、カルガリーでリック・タイタンを破りCRMW北米ヘビー級王座を獲得。6月7日、カナダ・ウィニペグでガマ・シンと組んでIWA世界タッグ王座を獲得。7月14日、SPWFの長岡厚生会館大会に出場。7月16日、IWA格闘志塾主催の鶴見、大位山、稲妻二郎のデビュー25周年記念大会「国際プロレス バイオレット同窓会イン屋台村」に出場。7月23日、剛竜馬主催の香川県のこんぴら夏祭りのプロレス大会に出場。7月31日、後楽園ホールでの剛竜馬主催の「プロレスバカフェスタ」に出場。8月1日、厚木市富士スーパー戸室店での「プロレスバカフェスタ」に出場。8月6日、屋台村でのIWA格闘志塾の大会に出場。11月16日、マニトバ州モリスでガマ・シンと組んでIWA世界タッグ王座を獲得。12月15日、カナダ・アルバータ州カルガリーのスタンピード・コレルで行われたカルガリーマット50周年の記念大会に出場。キューバン・アサシンと組んでマイク・アンソニー、キング・ラオ組と対戦。9分19秒、モローが体固めでラオに勝利。 97年10月、新東京プロレスに来日。 98年1月、新東京プロレスに来日。1月18日、新東京プロレスの後楽園ホール大会でバッドニュース・アレンと組んで石川川畑組のCCWタッグ王座に挑戦。19分2秒、石川のスモーピオンデスロックにモローが敗れた。1月19日、湘南大庭市民センター前広場大会で川畑輝鎮と対戦。額への噛みつき攻撃で流血させたが川畑の反撃にあい、12分32秒、レフリー暴行による反則負けに終わった。2月13日、新東京プロレスの東富士体育館大会での月岡明則戦が日本での最後の試合となった。 02年2月1日、オンタリオ州サンダーベイでのアイバン・デ・ポーリッシュ・モンスター戦で引退。引退後、ガマ・シン、アブ・ウィザルと家具運搬の会社を運営。その後、膀胱ガンの手術。 09年からカルガリー郊外の公園墓地「クインパークデセメタリー」で芝刈りやメンテナンスの仕事に就いた。

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