レスラーノート

ザ・シーク

THE SHIEK

本名:エドワード・ファーハット
1929年6月9日
ミシガン州ランシング出身
183cm 110kg

通称
アラビアの怪人
タイトル歴
USヘビー(デトロイト版)
UNヘビー
得意技
キャメルクラッチ

元祖アラビアの怪人。アラーへの祈りと火炎殺法でショーマン派として人気を誇った。ヨルダン・アンマン出身を自称。25年に両親がレバノンのベイルートからアメリカに移民。11人兄弟のうち10番目がシークで、末っ子がサブゥーの母だった。小学4年で学校を辞め、自動車工場で働く。始めは兄エドモンドの名、次に本名を使い、年令を偽って第二次世界大戦に2度出兵。プロレス観戦し、レスラーに憧れる。ミシガン州立大でレスリングをしたいと申し出たが、学生でないからと断られた。バート・ルービーというロシア人のレスラーに弟子入り。47年にブラックナイトというマスクマンとなってプロレス入り。数ヵ月後に素顔になってシーク・オブ・アラビとなりテキサスに転戦。ドリー・ファンク・シニアと抗争。20代前半はすばやい動きで活躍していた。その後、火炎殺法などの独自のスタイルで人気上昇。女子マネージャー(ジョイス夫人)を連れてリングに登場。夫人が妊娠中はヘビを使い、ヘビが死んだ後はアブドーラ・ファルークというマネージャーを使った。62年、NWA認定USヘビー級王座を獲得。64年にデトロイト地区の興行権を10万ドルで買い取る。「ビッグタイム・レスリング」を設立。ミシガン、オハイオ、インディアナ、バージニア、カナダ・オンタリオ地区で興行を行う。その後「デトロイトの帝王」として、プロモーターとしても手腕を発揮した。シカゴ、ミネアポリス、メンフィスと、1日に3試合をこなしたこともある。NWAの役員も務めた。レスラー育成にも努め、ロブ・バンダムは最後の弟子に当たる。デトロイト地区ではボボ・ブラジルと大抗争を展開した。72年9月、日本プロレスに初来日。来日第一戦で坂口を破りUNヘビー級王座を獲得したが翌日奪回された。73年4月25、26日に全日本プロレスに来日し、馬場のPWF王座に連続挑戦。74年11月に新日本プロレスに来日。77年から79年の全日本プロレスのタッグリーグ戦ではブッチャーと組んでファンクスと抗争。77年12月15日、蔵前国技館におけるファンクス戦で歴史に残る死闘を演じた。79年の世界最強タッグ決定リーグ戦では、最終戦のファンクスとの試合後にブッチャーに火炎を投げつけて仲間割れ。全日本プロレスには通算10回来日。81年春にデトロイトの興行権をジョージ・カノンに売却。甥のサブゥーをレスラーデビューさせ、90年にはFMWに来日。92年、大仁田後藤、サブゥーとファイヤーデスマッチを行った。この試合では、リングの周りの火力が強すぎて、酸欠のためリングは試合ができるような状態ではなかった。企画は大失敗。他の選手はリングを降りたが、シークは最後までリングに残った。リングから降りても逃げまどう客を威嚇し、退場後に倒れて救急車で運ばれた。98年12月、大仁田の団体USOの旗揚げ戦で引退。03年に死去。「自分では日本語が得意だと言って使っていたが、バンジョ(便所)、コーキー(コーヒー)、サンマサン(すみません)とひどいもんだった。いつも「シークサン イチバーン。サブゥー イチバンツー」と言っていたが、「イチバンツー」とは2番のことらしい」(サブゥー談)「自分で体を起こせないほどでも、私が見舞いに行くと、「今日はどこで試合だ。早くわしの荷物をまとめろ。出発だ」というふうだった。「死ぬ前にもう一度試合がしたい」といつも言っていた」(サブゥー談)