レスラーノート

坂口征二

1942年2月17日
福岡県久留米市出身
196cm 125kg
通称
世界の荒鷲
タイトル歴
USタッグ(デトロイト版)
UNヘビー
インターナショナルタッグ
アジアタッグ
EWU世界スーパーヘビー
北米ヘビー
北米タッグ
得意技
アトミックドロップ
シュミット流バックブリーカー
ネック・ハンギング・ツリー

高校受験に失敗し、高校浪人となった時に地元で道場を開いていた深谷甚八の元で本格的に柔道を始める。深谷甚八が市立南筑高校の柔道師範だったこともあり、市立南筑高校に入学し、柔道部で活躍。明大に進学し、62年から66年にかけて全日本選手権5年連続出場。 64年の全日本学生選手権で重量級優勝。 65年4月、旭化成に入社。その年の全日本選手権に初優勝。翌年は準優勝だった。柔道5段。

1967

67年2月にプロレス入り。入団発表後に馬場とハワイで特訓した。1週間ほどの滞在後、ロスに移動。ミスター・モトの指導の下、オリンピック・オーデトリアムのジムとYMCAで練習。いったん帰国し7月13日に渡米。ロスでルイス・ヘルナンデスとミスター・アトミック(クライド・スチーブンス)のコーチを受ける。カール・ゴッチのコーチも受けた。8月5日、カリフォルニア州サンバナディーノ市のスポーツ・アリーナでのスティーブ・コバック戦でデビュー。柔道着姿で登場し、勝利した。ロスで約50戦して、デューク・ケオムカと共に8ヶ月間フロリダ入り。テキサス、ジョージアを転戦する。

1969

69年3月18日に帰国。第11回ワールド大リーグ戦に出場。日本人だけのリーグ戦(対戦相手は外国人)を行い、5勝2敗1引き分けとなり8人中5位の成績に終わった。シリーズ終了後の6月に渡米。ロスでグレート小鹿と合流し、デトロイト地区に入る。ここで悪党レスラーに変身して、ビッグ・サカの名で人気を博す。7月28日、ミシガン州バトルクリークのシティホールで、小鹿と組んでベン・ジャスティス、ロッキー・ジョンソン組を破りAWA・USタッグ王座を獲得した。その後は小鹿と別れ、ジョージ・カノンをマネージャーにデトロイトを拠点にサーキット。

1970

70年3月に帰国。9月に海外遠征に出発し、アマリロで活躍。ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界王座に3度挑戦した。

1971

71年7月に帰国。その後は猪木が退団した穴を埋めるため日本に定着。12月9日、大阪府立体育館大会でNWA王者のドリー・ファンク・ジュニアと対戦。1本目は17分17秒に坂口がシュミット流バックブリーカーからのアトミックドロップで勝利。2本目は4分21秒、ドリーがバックドロップで勝利。3本目は2分15秒、ダブルアームスープレックスでドリーが勝利した。12月12日、東京体育館大会で吉村と組んでドリー・ファンク・ジュニア、ディック・マードック組を破りアジアタッグ王座を獲得。

1972

72年2月、ロスでキング・クローを破り、UNヘビー級王座を獲得した。5月に馬場と組みロスでファンクスを破りインタータッグ王座を獲得した。馬場の日本プロレス離脱後は大木との2枚看板となる。

1973

73年3月2日、ジョニー・バレンタインに敗れてUN王座から転落。4月、小沢正志木村聖裔大城大五郎を伴い新日本プロレスに参加。坂口の入団によって、NET(テレビ朝日)は新日本プロレスのテレビ放送を開始した。

1974

74年4月26日、第1回ワールドリーグ戦での公式戦で猪木と対戦。アトミックドロップなどのパワーで圧倒するが時間切れ引き分け。リーグ戦はキラー・カール・クラップと猪木、坂口が同点で並び、5月8日、東京体育館大会でワールドリーグ戦の決勝戦。第1試合でクラップと対戦。ブレーンクローに苦しみながらも反則勝ち。第2試合で猪木と対戦。猪木が足四の字固めをかけたまま場外転落。クラップが乱入し場外の坂口にブレーンクロー。額から流血した坂口がドクターストップ負け。第3試合でクラップを破った猪木が優勝した。8月、猪木と組んでロスでクルト・フォン・ヘス、カール・フォン・ショッツ組を破り北米タッグ王座を獲得。

1975

75年度のプロレス大賞で猪木と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1976

76年2月5日、ストロング小林と組んで北米タッグ王座を獲得。10月、南アフリカに遠征。10月30日、ジャン・ウィルキンスのEWU世界スーパーヘビー級王座に3本勝負で挑戦。1本目は王者がベンジュラムバックブリーカーに敗れた。2本目はアトミックドロップで勝利。3本目はドロップキックで勝利。EWU世界スーパーヘビー級王座を獲得した。11月13日、最終戦でジャン・ウィルキンスを相手に10分6ラウンド3本勝負で防衛戦。3Rにブレーンバスターで勝利。5、6Rをベンジュラム背骨折りで連取されて王座転落。76年度のプロレス大賞でストロング小林と共に最優秀タッグチーム賞を受賞した。

1977

77年7月28日、ストロング小林と組んで北米タッグ王座を獲得。10月25日、日本武道館大会でバッファロー・アレン・コージを相手に3分10ラウンドでの柔道ジャケットマッチ。3ラウンドまでは、ほぼ互角の展開。5R2分7秒、リング下に蹴落として、上がったところを送り襟絞めと逆腕固めの複合技を決めて勝利。

1978

78年2月8日に日本武道館でWWWF王者のビリー・グラハムに挑戦してリングアウト負け。3月20日、WWFのマディソン・スクエア・ガーデン大会でウイリエム・ルスカと柔道ジャケットマッチで対戦。10分45秒、柔道着を脱ぎ捨てたルスカに帯で首を絞められて反則勝ち。4月4日、WWFのペンシルバニア州フィラデルフィアでザ・モンスターマンと対戦。4R35秒、ハイキックをくらってKO負け。6月7日、福岡国際センター大会でザ・ランバージャックと対戦。3R3分2秒、コーナー最上段からのニードロップでKO勝ち。

1979

79年1月26日、岡山武道館大会でジョニー・パワーズの北米ヘビー級王座に挑戦。20分1秒、ダイビング・ニードロップで勝利して北米ヘビー級王座を獲得。4月5日、ヒロ・マツダマサ斎藤組に敗れて北米タッグ王座から転落。6月15日、長州と組んで北米タッグ王座を奪回。9月21日、タイガー・ジェット・シンに敗れて北米王座から転落。11月8日、パット・パターソンを破りWWF北米ヘビー級王座を獲得。12月13日、京都府立体育館大会でルスカと柔道ジャケットマッチで対戦。4分5R時間切れ引き分け。

1981

81年3月に猪木の提唱したIWGP構想を前に、2つの北米王座は返上した。NWF、IWGP王座には挑戦しなかった。

1983

83年6月、IWGP王座決定戦でホーガンのアックスボンバーをくらい猪木が失神KO負け。この試合結果は当時マッチメーカーだった坂口の筋書きとは違う猪木の独断だったため、坂口は「人間不信」と書置きをして数日間出社しなかった。

1989

89年6月、新日プロレス社長に就任し、猪木の右腕として活躍。

1990〜

90年3月に現役引退。99年6月から02年6月にかけて新日本プロレス会長に就任。03年6月までは会長兼CEO、05年3月まではCEOに就任した。非常に温厚な性格で新日本プロレスを支えた。03年9月14日、名古屋市総合体育館レインボーホール大会で13年ぶりに本格復帰し、蝶野と組んで高山真壁組と対戦。大歓声の中2人の息子と共に入場。待ち受けていた高山はリング上で葬儀用の菊の花束を坂口に贈呈し、マイク。「明日は敬老の日。明日お前は死んでいるから、一日早くお祝いしてやる!」その言葉を聞いた坂口は、ゴングが鳴るのを待たずに花束で高山の顔面に叩きつけ、払い腰から体落としで投げつけると、奥襟絞めで高山を圧倒。救出に入った真壁にも大外刈りから逆十字で猛攻。必殺のアトミックドロップも決めて大奮闘。試合は10分11秒、グラウンドコブラツイストで蝶野が真壁から勝利した。10月13日、東京ドーム大会で、メインの10人タッグイリミネーションに出場。ボブ・サップを払い腰で投げ、中邑にアトミックドロップをくらわせたが、中邑の低空ドロップキックを浴びて最初の失格者となった。05年3月31日、新日本プロレスのCEOを辞任し相談役に。同年10月、東京都狛江市東和泉に「坂口道場」を開設し、後進の指導にあたる。08年5月12日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」に来場。次男の憲二は俳優として活躍。
スクラップブック
「サカグチはリビング・レジェンドの一人だが、イノキとはまた違った強さを持っていた。ジュードーのチャンピオンだったし、ベストレスラーのひとりと言えるだろう。体も大きかったし、一つひとつの技が力強かった。どんなにやられても、正面からぶつかってきた。それは自分に自信があって、タフでないとできないこと。私にとっては闘いがいのあるレスラーだった。それにサカグチは決してウソをつかなかった。信用できる男だった」
(週刊プロレスNo.1567 タイガー・ジェット・シンのレスラー評より)


藤波辰爾「50年の名勝負数え唄〜WRESTLING JOURNEY〜」<13>長州力、坂口征二との初対決
(2021年10月15日12:00配信 スポーツ報知より)
 「坂口さんと初めて対戦した時は、向かいあった時、とにかくデカいということ(苦笑)。当時の選手は、ほとんどが僕よりデカいんだけど、坂口さんは特別。身長は196センチって言われていたけど、実際は、2メートルあったはず。そのデカさを実感したのがロックアップした時。普通の選手なら同じ高さになるんだけど、坂口さんと組んだ時は、その位置が違った。何しろ高くて、上から組まれるとこっちは余分な力を使うから苦労しました(苦笑)。通常、僕のやっている技が坂口さんには通用しない。飛ぶか、蹴るか、奇襲攻撃か。とにかくバランスを崩して倒すしかなかった。しかも倒したところで、足が太くてね。あのデカさは半端なかった」
 初対決以降、何度も坂口とはシングル、タッグで対戦したがリング上で、そんな破格のパワーを実感する忘れられない技があった。
 「僕がヘッドロックを取ったら、坂口さんにそのまま持ち上げられてリングの端から端まで投げられたことがあってね(笑)。お客さんはそういうシーンが喜んでいたけど、あれは、すごいパワーだった」
 坂口は当時、リングを離れるとフロントでも副社長として猪木、そして会社を支えた。
 「フロントとしての坂口さんも猪木さんをフォローする姿はリング上と同じだった。坂口さんが新日本の土台を作ったと言っても過言じゃないと思う。社外からの信用も高くて、それが後に坂口さんが社長になった時も生きた」