レスラーノート

小林邦昭

1956年1月11日
長野県小諸市出身
181〜183cm 105kg
血液型:O型

通称
虎ハンター
タイトル歴
アメリカス・ヘビー
IWGPジュニア
NWAインターナショナルジュニア
世界ジュニア
得意技
フィッシャーマンズスープレックス

芦原中学時代は砲丸投げの選手。中学卒業後、塗装会社で働いていたが72年10月に新日本プロレス入門。新幹線の食堂のメニューを全部食べるという伝説を作る。73年2月、西条市体育館における栗栖正伸戦でデビュー。80年6月、メキシコ遠征に出発。マーシャルアーツのパンタロンをはいて空手殺法を武器に活躍。

1981

81年4月10日、アレナ・メヒコでビジャノ3号のUWA世界ライトヘビー級王座に挑戦したが敗れた。10月2日にアレナ・メヒコで、メキシコ遠征中のアンドレ・ザ・ジャイアントとタッグを組んで話題となった。

1982

82年にはアメリカに転戦し、ロス地区でキッド・コビーのリングネームで活躍。7月18日、ティモシー・フラワーズを破りアメリカス・ヘビー級王座を獲得。10月に凱旋帰国し、初代タイガーマスクと抗争を展開。虎ハンターと呼ばれ注目を集めた。

1984

84年9月21日、長州谷津浜口寺西と共に新日本プロレスを離脱して新日本プロレス興行に移籍。10月9日、新日本プロレス興行がジャパンプロレスリング株式会社に社名変更。12月12日、横浜文化体育館大会で全日本プロレス初参戦。寺西と組んで菅原組と対戦。10分56秒、小林がフィッシャーマンズスープレックスで菅原に勝利。以後、全日本プロレスに参戦。

1985

85年6月にはダイナマイト・キッドに反則勝ちし、NWAインタージュニア王座を獲得。2代目タイガーマスクスティーブ・リーガル保永新倉相手に防衛。8月31日、両国国技館大会で2代目タイガーマスクを相手に防衛戦。15分36秒、タイガースープレックス85に敗れて王座から転落した。

1986

86年1月28日、東京体育館大会でミル・マスカラスのIWA世界ヘビー級王座に挑戦。8分42秒、両者リングアウト。11月23日、後楽園ホール大会でヒロ斎藤の世界ジュニア王座に挑戦。フィッシャーマンズスープレックスで勝利して世界ジュニアヘビー級王座を獲得。

1987

87年1月3日、後楽園ホール大会で渕正信に敗れて王座転落。その後、新日本プロレスに復帰。8月20日、両国国技館大会での王座決定トーナメント決勝で高田延彦を破りIWGPジュニア王座を獲得。9月17日、大阪府立体育会館大会でオーエン・ハートを相手に防衛戦。12分20秒、フィッシャーマンズスープレックスで勝利。12月27日、両国国技館大会で馳浩を相手に防衛戦。17分3秒、ノーザンライトスープレックスに敗れて王座転落。

1988

88年6月26日、名古屋レインボーホール大会で越中のIWGPジュニア王座に挑戦。19分26秒、ドラゴンスープレックスに敗れた。8月8日、横浜文化体育館大会で越中のIWGPジュニア王座に挑戦。9分9秒、逆さ押さえ込みにフォール負け。その後、ヘビー級に転向。

1991

91年5月6日、後楽園ホール大会で蝶野と対戦。10分4秒、STFに敗れた。6月、大腸がんを告知されて手術。

1992

92年1月30日、大田区体育館大会のメインイベント終了後、誠心会館の齋藤彰俊と対戦。壮絶な打撃戦となり、2人とも流血。コーナーに押しこまれて正拳突きを連打され、7分14秒、大量出血のためレフリーストップ負け。夏に越中と共に選手会を脱会し、反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成。99年2月に解散するまで活躍した。

1996

96年10月10日、みちのくプロレス両国国技館大会で、ダイナマイト・キッド、ドス・カラスと組んでミル・マスカラス、初代タイガーマスク、ザ・グレート・サスケ組と対戦。久しぶりのタイガーマスクを相手にフィッシャーマンズスープレックスを決めるなど健闘。試合は15分30秒、ドス・カラスがライガーボムでサスケにフォール勝ちした。

1998〜

98年に肝臓がんの大手術。 00年4月21日、後楽園ホールにてライガーを相手に引退試合。引退後はフロント入り(総務部)し、選手の健康管理を担当。新日本プロレス道場の管理人を務める。 07年4月30日、後楽園ホールでの「UWAI STATION 5」で久しぶりに試合に出場。ザ・グレート・カブキをセコンドにつけてドン荒川と対戦。試合はレフリーの山本小鉄を荒川が攻撃したため反則勝ち。消化不良の結末となった。9月21日、リアルジャパンプロレスの後楽園ホール大会のメインでタイガーマスクと対戦。マスク剥ぎやフィッシャーマンズスープレックスの往年の動きを披露したが、最後は11分21秒、タイガースープレックスからの回転エビ固めで敗れた。 08年に肺ガンの手術。8月26日、新日本プロレスの後楽園ホール大会(海野レフェリー20周年興行)で、木村健悟と共に越中、後藤達俊青柳組のセコンドにつき、平成維震軍が一夜限りの復活。試合では永田天山中西組と対戦し、場外戦で越中とのハイジャックパイルドライバー、終盤では永田にフィッシャーマンズ・スープレックスを決めて活躍したが、11分34秒、永田のバックドロップホールドに青柳がフォール負け。12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」でタイガー戸口木村健悟、ドン荒川、ジャイアント小馬場、アントニオ小猪木と共にバトルロイヤルに出場(試合はアントニオ小猪木の勝利)。 09年10月12日、両国国技館での蝶野の25周年特別興行のバトルロイヤルに出場。平澤にフィッシャーマンズスープレックスでフォールを奪った。11年5月7日、レジェンドプロレスの大阪府立体育会館第2競技場大会で初代タイガーマスクと対戦。4分22秒、マスクをはがして反則負け。その後、タイガーマスクの主張により再試合。場外戦で、鉄柱の金具にマスクのひもを結びつけて身動き取れなくさせて、3分39秒、リングアウト勝ち。9月23日、レジェンドプロレスの名古屋国際展示会議場イベントホール大会で初代タイガーマスクと対戦。8分48秒、フィッシャーマンズスープレックスをカウント2で返され、再びフィッシャーマンズスープレックスを狙ったが、逆さ押さえ込みに切り返されてフォール負け。 17年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会で14人参加のニュージャパンランボー(時間差バトルロイヤル)に出場。
スクラップブック
“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー<6>「デビュー戦で失敗したドロップキック」
(2020年10月6日12:00配信 スポーツ報知より)
 1972年10月に入門してから3か月。当時の小林は「サンペイ」というニックネームが付けられた。
 「あれは、豊登さんが付けたんです。どういう意味かは、まったく分かりません(笑)。豊登さんは、日本プロレス時代から若手のリングネームとか付けるのが好きで『上田馬之助』『高崎山猿吉』『林牛之助』とか付けてましたよ」
 豊登は、日本プロレス時代の幹部レスラーで新日本が旗揚げした当時は、猪木に請われてリングに上がるなど新日本と関わっていた。豊登が付けた「サンペイ」は現在に至るまで小林のニックネームとして定着している。新しい73年の年が明けると、待望のデビュー戦の時が来た。ただ、1週間遅れて入門した藤原喜明に追い抜かれてのデビューだった。小林より7歳上で23歳で入門した藤原は72年11月12日に和歌山県白浜町の坂田会館で藤波辰巳(現・辰爾)を相手にデビューしていた。
 「藤原は、新日本に入る前に横浜のスカイジムで元レスラーの金子武雄さんに教えてもらって、即戦力として入門してきたから先にデビューしたのも仕方がないですよね。体もできていたし、年齢も7つ上でしたし、自分とスパーリングやっても決められましたよ。強かったですね。ただ、やっぱり後から入ってきた人間は先にデビューしたのは悔しかった。ただ、お互いの実力が0対0の状態でやって負けたら悔しいけど、入門した時点で僕が0なら向こうは8ぐらいで、差はありましたから、やっぱりしょうがないですね」
 藤原から遅れること3か月後の73年2月1日、愛媛県西条市体育館での栗栖正伸戦でデビューした。公には、この栗栖戦がデビューとして伝えられているが小林によると、正式にはこの前にデビューしていたという。
 「栗栖さんとの試合の前に一度デビューしたんです。だけど、自分の体があまりに細すぎて“もう少し肉が付いてからデビューさせろ”って猪木さんが言って、1試合だけやって、しばらく試合に出してもらえない日が続いたんです」
 相手は、後にグラン浜田のリングネームでメキシコマットで活躍する先輩レスラーのリトル浜田だった。浜田は、身長が170センチに満たない小柄な体格だったがスピードある技が持ち味だった。
 「だから僕のデビュー戦は浜田さんなんです。ただ、どこの会場かは覚えていません。覚えているのは、浜田さんは身長170センチないじゃないですか。それで、浜田さんの胸板めがけてドロップキックをやったんです。そのままジャンプして自分では高く飛んだつもりだったんですが、浜田さんのひざを蹴っていたんです(笑)。何しろ初めての試合で、どうやってやればいいのか分からないし。やることがなくなってやぶれかぶれで出したドロップキックだったんです。自分じゃ高く飛んだなと思ったのに・・・大失敗ですよ。その時に試合と練習は全然違うなって思いました。例えば歌手の人でも、カラオケルームで歌うのとステージで客がいるところで歌うのは全然違うじゃないですか。そんな感じでした」
 ほろ苦いドロップキックの思い出を経て栗栖との再デビュー戦が来た。
 「栗栖さんは2回目でした。浜田さんとやったあとは、太らないといけないから、めちゃくちゃ食って体をなんとかお客さんに見てもらえるぐらいにした。それでも体重は73、4キロぐらいでした」
 今、デビュー当時を振り返って思うことがある。「自分の経験上、リングに上がって闘うからには、100人とか200人の会場でも蔵前とか両国の国技館、東京ドームでも気持ち、テンションはどこの会場でも同じなんです。特に大きな会場だから気合が入るとかはならなかったですね。これは慣れでもあるけど、猪木さんからの教えも大きかったですね」


“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー<26>「反選手会同盟。異種格闘技戦への持論」
(2020年10月26日12:00配信 スポーツ報知より)
 1992年、36歳になった小林邦昭に転機が訪れる。越中詩郎と反選手会同盟を結成したのだ。きっかけは、青柳政司が館長の空手の誠心会館との抗争が発端だった。小林は91年12月8日の後楽園ホール大会で青柳、獣神サンダー・ライガーと組んで、ヒロ斎藤、保永昇男、ネグロ・カサスと対戦した。この時、控室で小林は、青柳の付け人を務めた門下生のドアの閉め方を注意した。ところが、門下生が反抗したため小林は鉄拳制裁。これに誠心会館の空手家が怒りをあらわにし、年が明けた92年に小林と誠心会館との抗争が勃発した。
 1月30日の大田区体育館大会で斎藤彰俊と「プロレス対空手」の異種格闘技戦で初激突も小林はTKOで敗れる。当時、小林は選手会の副会長を務めていたため、以後選手会長の越中詩郎が小林を支援し抗争が激化。4月30日の両国国技館大会で小林が斎藤を破り、誠心会館の道場に掲げられた「看板」を奪取し抗争はピークを迎えた。ところが、青柳は6月9日に名古屋国際会議場背の誠心会館の自主興行への参戦を越中と小林に要求し、2人は会社に無断で参戦する。青柳と闘った小林は、両者レフェリーストップに終わったが健闘をたたえ看板を返還する。
 この無断参戦に新日本の選手会が問題視し越中と小林は会長、副会長を解任され、会社から無期限出場停止の処分を受けた。その後、処分は解かれたが、小林は越中と行動を共にしターゲットを新日本の選手会に絞る。この行動に木村健悟、さらに抗争を展開していた青柳と斎藤も共闘を表明し「反選手会同盟」と呼ばれ、新日本プロレスの中で新しい旋風を巻き起こすことになる。
 「反選手会同盟」を結成する発端となった誠心会館との「異種格闘技戦」。中でも斎藤との初対決を小林は「タイガーマスクが引退した以降で今でもあの試合は、一番の思い出になっています」と振り返る。斎藤との試合は、蹴りとパンチ、投げ、関節技だけの闘いだった。そこには小林の「異種格闘技戦」への哲学があった。
 「例えば、あの当時、いろんな選手が異種格闘技戦をやっていたんですが、僕の目からそういった試合を見るときれいすぎるなって思っていました。きれいな異種格闘技戦ってどうかなって思ってたんです。僕から見れば。異種格闘技戦は、違う格闘技が闘うのはもちろん、リングに上がる選手は、自分の格闘技の意地とプライドを背負って闘うわけですから、ケンカのようなド突き合いにならないとおかしいんです。僕の中では、異種格闘技戦は、こうだっていうものがあったので、青柳や斎藤とそういう試合をやっただけです。結果、異種格闘技戦は“こうだろ”って見せられた自負がありました」
 アントニオ猪木が1976年2月6日に日本武道館で柔道家のウィレム・ルスカとの対戦からスタートした新日本プロレスの異種格闘技戦。かみ合わない凡戦もあったが、キックボクサーのモンスターマン、極真空手のウイリー・ウイリアムス戦など緊迫感あふれる攻防があった。小林は、プロレスラー同士の試合では、出せないこの緊張感こそ異種格闘技戦の生命線だと考えていた。しかし、80年代後半から90年代に入ったころの異種格闘技戦には、こうした緊張感が薄れていたと感じた。小林は誠心会館の斎藤、青柳との対戦で異種格闘技戦だからこそできる緊迫感あふれる「ド突き合い」を仕掛けたのだ。
 「参考になったのは極真会館のオープントーナメントです。ただ、ひたすら殴る、蹴るだけの試合でこういう試合ができたらいいなって思っていました。極真は、昔から興味があって、トーナメントが開催された時の会場の東京体育館へ行って見に行っていました。その時に、いつか自分が異種格闘技戦をやることがあれば、この極真を参考にしてやろうと思っていたんです、だから、誠心会館との試合は、あのスタイルでやっただけです。あの極真のド突き合いの雰囲気の試合をそのままリングでやっただけ。あんなところできれいな流れになったら異種格闘技戦はその時点で終わりですよ」