レスラーノート

キング・イヤウケア

KING IAUKEA

本名:カーティス・パイハウ・イヤウケア3世
1937年9月15日
ハワイ州ホノルル出身
193cm 140kg

通称
ハワイの巨象
タイトル歴
USヘビー
WWWF世界タッグ
ハワイヘビー
得意技
フライングボディプレス(フライングソーセージ)

ホノルルのプナハウ高校を卒業後、フットボール奨学金でカリフォルニア大学バークレー校に進学。57年、在学中にデビュー。大学を3年で中退後、CFLブリティッシュ・コロンビア・ライオンズに2シーズン出場。59年から本格的にプロレスに専念。60年10月、カーチス・イヤウケアの名で日本プロレスに初来日。11月16日、東京都体育館大会で力道山のインター王座に挑戦。1本目は6分13秒、両者流血となり、リングアウト負け。2本目は20秒、場外でダウンしたままリングアウト負けに終わった。日本プロレスには通算4回来日。61年8月から68年12月にかけてハワイヘビー級王座を4度獲得。68年1月7日、日本プロレスの大阪府立体育館大会でジャイアント馬場のインター王座に挑戦したが敗れた。同年にサンフランシスコでUSヘビー級王座を獲得。72年1月に国際プロレスに来日。ストロング小林のIWA王座に金網デスマッチで挑戦。2月にフィラデルフィアでバロン・シクルナと組んでカール・ゴッチレネ・グレイ組からWWWF世界タッグを獲得。73年3月、全日本プロレスのチャンピオンカーニバルに参加。以来、全日本プロレスを主戦場にし、客席を蹴散らしながらの入場パフォーマンスを披露した。76年には第4回チャンピオンカーニバルに出場し、4月17日の八戸市体育館大会ではアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦。狂乱ファイトを得意とする両者は会場狭しと大流血戦を展開し無効試合に終わった。77年1月12日、全日本プロレスの札幌中島スポーツセンター大会でジャンボ鶴田のUN王座に挑戦。1本目は5分39秒にフォール勝ち。2本目は3分34秒にフォール負け。3本目は5分2秒に反則負けに終わった。70年代前半はオーストラリアで大活躍。79年に足を負傷して引退。ハワイで貸しボート屋を営む。87年にマネージャーとなって一時復帰した。息子のロッキー・イヤウケアもレスラーになった。10年12月4日、ハワイの自宅で死去。