レスラーノート

キム・ドク

KIM DUK

本名:戸口正徳
1948年2月7日
東京都葛飾区出身
193cm 125kg

タイトル歴
インターナショナル・タッグ
UWA世界タッグ
UWA世界ヘビー
カリビアン・ヘビー
USタッグ(トライステート版)
セントラルステーツ・タッグ
WEWヘビー
得意技
ツームストン・パイルドライバー
ダブルアームスープレックス

中学時代はバスケットボールで活躍。修徳高校では柔道部で活躍。在日韓国人の父の表福昌は龍錦の四股名で十両まで進み、力道山とも親交があった。高校卒業後、67年3月12日に日本プロレスに入門。入門後、韓国のソウルにあったプロレスの合宿所に行き、韓国空手の千圭徳の元で半年間、修行を積む。大木の付き人となる。68年8月30日、後楽園ホール大会での柴田勝久戦でデビュー。日本プロレス崩壊寸前の72年12月30日にアメリカ遠征。キム・ドクに改名。73年6月にオクラホマ中心のトライステート地区に転戦。10月4日、スタン・コワルスキーと組んでUSタッグ王座を獲得。74年3月、インディアナポリスのWWAに転戦。ミツ荒川と組んで活躍。 75年1月にテキサス州ダラスに転戦。5月にミネアポリスのAWAに転戦。10月25日、バーン・ガニアのAWA王座に挑戦した。同月に大木の要請で韓国マットに登場。

1976

76年5月からはAWAでビリー・レッド・クラウドと抗争。9月20日に帰国。帰国後は大木と組んで活躍。10月28日、蔵前国技館大会で大木と組んで馬場鶴田組を破りインタータッグ王座を獲得。12月9日、日大講堂大会で馬場、鶴田組に敗れて王座転落。同月からミッドアトランティック地区に転戦。ワフー・マクダニエルと抗争。

1977

77年10月に全日本プロレスに再登場。11月7日、韓国ソウル文化体育館で再び大木と組んで馬場、鶴田組を破りインタータッグ王座を獲得。年末の世界オープンタッグ選手権には大木と組んで出場。4勝3敗1引き分けの同点4位に終わった。

1978

78年5月11日、大阪府立体育会館大会で馬場、鶴田組に敗れてタッグ王座から転落。9月13日、愛知県体育館大会で鶴田のUNヘビー級王座に挑戦し、5分間の延長戦でも決着がつかずに65分時間切れ引き分け。11月3日から始まった国際プロレスの日本リーグ争覇戦に参戦。4勝1敗2引き分けでリーグ戦を突破。11月25日、蔵前国技館大会での決勝トーナメント1回戦でラッシャー木村と対戦。場外でパイルドライバーをくらってリングアウト負け。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では大木と組んで参戦し、全敗に終わった。

1979

79年1月29日、大阪府立体育会館大会で鶴田のUN王座に再挑戦。60分時間切れ引き分けに終わった。7月13日に全日本プロレスに入団。8月17日にタイガー戸口に改名。

1980

80年2月にディック・マードックのUN王座に挑戦するが、これも60分時間切れ引き分けに終わった。5月27日、秋田県立体育館大会でハーリー・レイスのNWA王座に挑戦。2対1で敗れた。9月に西ドイツに遠征し、ハノーバー・トーナメントに出場。

1981

81年6月24日、蔵前国技館大会で新日本プロレスに初登場。キラー・カーンと対戦し、ラフファイトを展開。場外戦での鉄柱攻撃で戸口がカーンの額を流血させ、リング上でバックドロップを決めるが、投げきれずに両者ダウン。なんとか立ち上がったカーンは股間にヒザ蹴り。その勢いで戸口の背後にいたレフリーはダウン。苦しむ戸口が押さえこまれ、9分45秒、一度はサブレフリーの3カウントが入ってカーンの勝利となったが、すぐに山本小鉄審判部長の判定で戸口の反則勝ちとなった。

1982〜1990

82年3月、第5回MSGシリーズに参戦。3勝8敗2引き分けに終わった。12月のタッグリーグ戦ではキラー・カーンと組んで準優勝。 83年3月3日、ヤス・フジイと組んでセントラルステーツ・タッグ王座を獲得。同年からタイガー・チャン・リーの名でWWFのサーキットに参加。 88年1月5日を最後にWWFを離脱。WWF離脱後はオレゴン州ポートランドに定着。88年には映画「レッドブル」に出演した。 90年6月からプエルトリコで活躍。9月8日、プエルトリコ・バヤモンでカリビアン・ヘビー級王座を獲得。

1991

91年2月7日、プエルトリコ・ウマカオでカリビアン・ヘビー級王座を獲得。5月31日、新日本プロレスの大阪城大会で栗栖正伸と組んで後藤達俊ヒロ斎藤組と対戦。12分33秒、ドクがツームストンパイルドライバーで後藤にフォール勝ち。日本では6年ぶりの登場となった。6月12日、日本武道館大会で栗栖と組んでスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤組と対戦。9分12秒、隠し持っていたメリケンサックでマシンを攻撃し、反則負け。試合後も場外でヒロ斎藤に合体パイルドライバーを見せた。10月からのSGタッグリーグ戦ではタイガー・ジェット・シンと組んで出場。1勝5敗でリーグ戦を終えた。

1992〜2014

92年1月4日、東京ドーム大会でマサ斎藤と組んでダスティ・ローデスダスティ・ローデス・ジュニア組と対戦。14分23秒、ローデス・ジュニアのブルドッキングヘッドロックに斎藤が敗れた。 93年6月からメキシコのUWAに登場。UWAではマスクマンのヤマトとして出場した。8月1日、エル・トレオでドス・カラスに敗れてマスクを剥がされる。8月15日、エル・トレオでカネックとカベジェラ戦で対戦し、敗れて髪の毛を剃られる。 94年2月からWARに登場。3月14日、カネックを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。18日にカネックに王座を奪回された。11月にWARでマスクマンの青鬼として赤鬼(ドン・ムラコ)と組んで登場したが、大きな話題にはならなかった。 95年10月に東京プロレスに出場し、1シリーズで離脱。その後は韓国で試合に出場。 01年2月に全日本プロレスに復帰。4月14日、全日本プロレスの日本武道館大会で天龍と組んで太陽ケアジョニー・スミス組の世界タッグ王座に挑戦。12分40秒、ケアの飛びつきDDTにドクが敗れた。9月3日、フレッシュランドみえ大会で平井伸和と対戦。13分4秒、ブレーンバスターで勝利。10月21日、W★INGのディファ有明大会で本間朋晃、ジェイソン・ザ・テリブルと3WAYマッチ。11分54秒、本間が雪崩式フランケンシュタイナーでジェイソンに勝利。1対1の対決となり、15分44秒、パイルドライバーで勝利。10月27日、日本武道館大会でジャイアント・キマラと対戦。8分58秒、ボディプレスに敗れた。全日本プロレス離脱後は日本のインディー団体WWSでポーゴと抗争。12月16日、WWSの越谷桂スタジオ大会でミスター・ポーゴを相手に「ミスター・ポーゴ負けたら即刻引退プエルトリカン・チェーンデスマッチ」。14分23秒、チェーンによる絞首刑に失神KO負け。 その後は韓国に行きプロレスから離れる。 08年12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」で小林邦昭木村健悟ドン荒川、ジャイアント小馬場、アントニオ小猪木と共にバトルロイヤルに出場(試合は アントニオ小猪木の勝利)。 09年10月12日、両国国技館での蝶野正洋25周年特別興行のバトルロイヤルに出場。12月31日、後楽園ホールでの大日本、DDT、KAIENTAIの共催興業「天下三分の計 大晦日年越しスペシャル」でグレート小鹿マイティ井上鶴見五郎グラン浜田と組んでTAKAみちのく、アブドーラ小林、高木三四郎、ポイズン澤田JULIE、MEN’Sテイオー組とイリミネーションマッチで対戦。10分34秒、ポイズンと同時にオーバーザトップロープで失格。試合は味方の勝利に終わった。 10年3月14日、DDTの後楽園ホール大会で星誕期と組んで高尾、松永智充、伊橋組と対戦し、7分9秒、ツームストンパイルドライバーで高尾に勝利した。 14年7月12日、Battle Aidの新木場1stRING大会でスタンガン高村と組んで百田光雄、維新力組と対戦。9分23秒、維新力の横入り式エビ固めに高村がフォール負け。

2018

18年2月16日、後楽園ホールでのプロレスリング・マスターズでグレート小鹿、百田光雄と組んで越中青柳齋藤彰俊組と対戦。10分49秒、小鹿が首固めで青柳にフォール勝ち。6月10日、Aチームの北千住シアタ−1010大会で下田大作のWEWヘビー級王座に挑戦。8分4秒、ツームストンパイルドライバーで勝利。WEWヘビー級王座を獲得した。7月22日から始まったAチームのWEWタッグ王座決定リーグ戦にランディ・プレヤーと組んで参戦。8月21日、後楽園ホールでのプロレスリング・マスターズでグレート小鹿と組んでコリー・ガスパー、カリー・ガスパー組と対戦。13分57秒、ドクがツームストンパイルドライバーでコリーに勝利。11月10日、Aチームの亀有リリオパーク大会で櫻井匠と対戦。10分48秒、ツームストンパイルドライバーで勝利。タッグリーグ戦は4勝2敗に終わった。

2019

19年1月19日、Aチームの王子BasementMON☆STAR大会で下田大作を相手に防衛戦。10分32秒、逆さ押さえこみにフォール負けして王座転落。3月13日、TCWの新木場1stRING大会でユン・ガンチョルのNKPWAヘビー級王座に挑戦。コーナーでの攻防の際に不可抗力ながらもレフリーに激突して反則負け。8月30日、プロレスリング・マスターズの後楽園ホール大会でグレート小鹿と組んで藤原喜明大矢剛功組と対戦。8分26秒、戸口がランニング・ネックブリーカーで大矢に勝利。9月1日、HEAT−UPの横浜にぎわい座大会で渡辺宏志と対戦。10分46秒、ツームストーン・パイルドライバーで勝利。9月19日、TCWの新宿FACE大会で橋本友彦、HASHINOSUKEと組んで加藤茂郎、千葉智招、レザーフェイス組と対戦。10分30秒、戸口がフライング・ネックブリーカーでレザーフェイスに勝利。12月にオハイオ州クリーブランドで心臓のカテーテル手術。

2020〜

20年3月20日、闘真の王子BASEMENT MON☆STAR大会で日向小陽と対戦。7分17秒、コブラクラッチホールドで勝利。21年9月14日、後楽園ホールでの日本プロレス史70周年記念大会「LEGACY」で、17選手参加の時間差バトルロイヤルに出場。 22年5月31日、後楽園ホールでのジャンボ鶴田23回忌追善興行で引退試合。藤波辰爾谷津嘉章と組んで渕正信、越中詩郎、井上雅央組と対戦。11分59秒、戸口がツームストーン・パイルドライバーで井上に勝利。



スクラップブック
新日本プロレスで初めてキム・ドクさんと会った時は、あまりに目つきが鋭く、思わずビビってしまったが、ドクさんは意外に寂しがり屋だ。だから一人でメシを食いに行くのが嫌で、よく食事に引っ張っていかれた。その上、「アメリカにはパチンコ屋がないんだ」と言っては、パチンコにもつき合わされた。ただ、ドクさんとパチンコに行くと必ず、なぜか俺の座った台は打ち止めになるのだが、ドクさんはすぐ玉をすってしまい、最後は俺が打ち終わるのをドクさんが待っていた。(中略)そして、メキシコに渡った時は「ぜーぜー、ぜーぜー」と呼吸しながら、ふらふらになってついに寝込んでしまったのだ。食事は喉を通らない、まわりにも病気のことはわかってもらえず、ビクターにも、「大丈夫、大丈夫、コーナーに立っているだけでいいから、試合してくれ」と言われては、マジで「もうここから逃げ出して、日本に帰らないと殺される」と思っていた。そんな時に、「おおーっ、松永!来たのか?」と、メキシコで仕事をしていたドクさんが電話をかけてきたのだ。俺は天の助けだと思い、ドクさんに事情を話すと、すぐドクさんが医者を呼んでくれた。そして、ペニシリンを打ってもらい、ようやく快方に向かい、試合にも何とか出られるようになった。だから、俺はドクさんにはすごく感謝している。ドクさんはあの顔でビッグマウスだが正義感は強くて、結構優しいところもある人だった。(松永光弘「ミスターデンジャー プロレス危険地帯」より)


【J鶴田興行】タイガー戸口 54年のキャリアに終止符 後輩たちに最後のゲキ「今の若い人はバカばっかり」
(2022年5月31日22:33配信 東スポWebより)
「ジャンボ鶴田23回忌追善興行」が31日に東京・後楽園ホールで行われ、タイガー戸口(74)が約54年に及ぶレスラー生活に終止符を打った。
 戸口は1967年3月に日本プロレスに入門し、団体崩壊直前の72年12月に単身渡米。「キム・ドク」としてトップヒールの座を確立した。76年に一時帰国すると全日本プロレスに参戦し、鶴田さんと名勝負を繰り広げた。
 ライバルの追善興行を引退試合の舞台に選んだ戸口は、藤波辰爾、谷津嘉章と組んで渕正信、越中詩郎、井上雅央組と6人タッグ戦で激突した。コーナーポストに上がって空中技を仕掛けようとしたところで、越中のデッドリードライブからジャンピングヒップアタックを浴びたが、気迫で立ち上がる。井上のラリアートを正面から受けとめると、ランニングネックブリーカーで反撃開始。最後はツームストーンパイルドライバーで3カウントを奪い、有終の美を飾った。
 懇切丁寧に関係者へお礼の言葉を述べた戸口は最後にマイクで「54年間、世界を回ってきました。これからも若い連中がやってくれればいいなと。ひとつだけ言っておく。お前ら、プロレスの火を消すな」とメッセージ。引退の10カウントゴングを聞き終えると、マットにキスをして引きあげた。
 万感の表情でバックステージに現れた戸口だが「完全に消耗したとは言えないですよね。なぜかって言うと今の若い人はみんなデタラメだから。バカばっかりだから。まあ、まともに頭の賢いのはそんなにいないと思います。試合見てたら分かる。俺も辞めたくはないけど、年も年なので。ちょうど鶴田も23回忌。彼が仏から神にあがる時だからちょうどいいなと」と、今後を担う後輩たちにはなんとも厳しいゲキ。
「本当に、ありがとうございました。一生懸命やってきたことが終わりだと思います。これから若いヤツがプロレスをつぶさないようにしてください、それだけです!」と、最後まで業界の未来を案じていた。