レスラーノート

魁勝司

本名:北沢幹之
1942年2月15日
大分県国東郡安岐町出身
175cm 95kg

得意技
キャメルクラッチ

デビュー前は北九州で港湾労働をしていた。その後、大阪に転居。同じ大分県出身の2代目玉乃海に弟子入りしようと東京まで来たが、入門できず、レスラーを目指す。横浜の桜木町で3ヶ月くらいドヤ街に泊まり、港湾労働をやりながらジムにも通う。61年10月に日本プロレスに入門。62年1月21日、東京都台東区体育館の林幸一戦でデビュー。猪木馬場の付き人を務めた。5月13日、本名から北沢幹三に改名。8月17日からリングネームを本名に戻す。63年8月、高崎山猿吉に改名。65年5月30日、高崎山幹之に改名。7月14日、高崎山三吉に改名。66年に東京プロレス旗揚げに参加。豊登と猪木がケンカ別れした時に、猪木の防波堤となって、名義だけの東京プロレス社長に就任。67年4月に猪木と共に日本プロレスに復帰。6月2日、日本プロレス復帰戦で北沢幹之介に改名。8月16日、北沢幹之に改名。69年7月20日、行田大会でのバトルロイヤルで右足内側靭帯を断裂し、長期欠場。70年1月、新海弘勝に改名。2月にバトルロイヤルで再び怪我をして長期欠場。8月に復帰した。71年6月、メキシコ遠征。72年3月、メキシコから帰国して新日本プロレスの旗揚げに参加。3月6日、旗揚げ戦から魁勝司に改名。前座で活躍した。76年12月に決勝戦で木村たかしを破り、第3回カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦で優勝。81年4月3日、後楽園ホールで引退試合を行った。性格は優しく、酒、ギャンブル、タバコ、夜遊びをしなかった。引退後はUWFやリングスのレフリーを務めた。97年3月28日、リングスのNKホール大会でレフリーを引退。02年5月2日、東京ドームでの新日本プロレス30周年記念大会で、記念セレモニーに登場。その後はビッグマウスにレフェリーとして参加。06年9月には無我ワールド・プロレスリングのレフェリーとして参加。08年12月18日、後楽園ホールでの「昭和プロレス」での第1試合(ヤマハブラザース対小鹿カブキ組)でレフリーとして出場。



スクラップブック
強かった人?やっぱり北沢さんかな。北沢さんはホントに強かったですね。普段はおとなしい人ですけどね。なにせ日プロのコーチをしてくれていた先生のカール・ゴッチがまともに極められなかったですからね。まあ、最終的には北沢さんを極めるけど肛門に指を入れられたり、目のところに指を入れるなどして、極めていくって感じだった。裏技の裏だったけど、そうなると北沢さんもバカ負けしてタップするんですよ。それほど強かった。そうそう、手も早かったです(笑)。ある時、サムソン轡田さんがリングでノサれたことがあった。試合中に北沢さんに食ってかかったんですよ。そしたら北沢さんがカッとなって「コラ、あんちゃん。ナメたらあかんで!」と言ってガ〜ンと一発食らわせた。轡田さんはその一発でバタンと倒れちゃった。普段はおとなしくて優しい人だけど、怒らせると怖さが出る人だったんじゃないかな。そんなふうだったから、よく外国人選手の練習に付き合わされてましたよ。ダニー・ホッジやなんかが練習場でやるとき、上から言われてよく相手になっていた。ホッジの強さは知られていたけど、どれほどの強さかを見たいから北沢さんに相手をさせて、強さを試すというわけですよ。(週刊プロレス NO1419 ザ・グレート・カブキのインタビューより)
北沢さんは何かねぇ、極める極めないっていうよりも極めさせない技術が凄いんですよ。リングスの時に(ヴォルク・)ハンがふざけてスパーリングやった時にね、全然どうにもならなくて、最後には本気でやってましたから。それを横で(アンドレイ・)コピィロフが観ていて、”彼は出来るよ”って感心してたもんね。(Gスピリッツ NO3 前田日明インタビューより)
―― 北沢さんのデビュー戦は62年1月21日、台東区体育館で相手は林幸一(ミスター林)ですよね。
北沢 いえ、いろんな資料で林さんになってるんですけど、本当は(秀雄=マシオ駒)さんなんですよ。
小鹿 北沢さんもそうだったんだ!俺もデビュー戦は駒さんとだったよ。
―― 長年、公式プロフィールは林になっていましたが、この頃の記録は間違いが多いんですよね。
北沢 自分は力道山先生に控室で「試合に出してください」と頼んで、殴られました(笑)。「泣かないんか!」「泣きません!」って。それからすぐにデビューさせてもらったんです。先生に人前で殴られたこともありますけど、今は厳しくしてもらったことを感謝しています。
(Gスピリッツ Vol.31 北沢と小鹿のインタビューより)
――それにより、6月から北沢幹之が派遣されています。
「キタサワですね。彼が来て、柴田との日本人コンビが復活したわけです。キタサワもまた向上心のある優秀な選手で、とてもタフでした。その上、人間的にも礼儀正しく素晴らしい。私は彼らから日本人の持つ誠実な心を感じ、信頼できるビジネスパートナーだと思いました」
(Gスピリッツ Vol.38 2代目EMLL代表サルバドール・ルテロ・カモウのインタビューより)
レスラー人生を振り返った藤波辰爾
(2017年2月15日 スポーツ報知より)
 1970年春、16歳の藤波辰爾は、大分・別府温泉でプロレスラーの北沢幹之と出会った。レスラーに会って入門を直談判しようと兄・栄二と探し回り、ようやくたどり着いたのが北沢だった。
 「北沢さんは、レスラーとしては大きな方じゃなかったんだけど、その時はすごくでかく見えてね。顔を見たら鼻が曲がっているし、胸板なんか分厚くて迫力を感じた。試合は見たことあるけど、何しろ、こんな形でレスラーと会うのはこの時が初めてだったから、自分の気持ちは心臓が飛び出るような感じだった」
 北沢は大分県東国東郡(現・国東市)出身で1961年に日本プロレスに入門。途中、アントニオ猪木が旗揚げした東京プロレスへ移籍したが団体崩壊と共に日本プロレスへ復帰した中堅レスラーだった。生のレスラーのオーラに圧倒された藤波少年。内気な性格も重なって自分の思いを伝える言葉が出てこなかったという。
 「そのころの自分は、前に出られない性格でしかも、レスラーを目の前にして話すこともできなかった。代わりに兄貴が“弟がプロレスが好きで、レスラーになりたいんです”って必死でお願いしてくれてね。その横で自分は、頭を下げるのが精いっぱいだった」
 そんな兄弟の情熱が伝わったのだろう。北沢は「気持ちはよく分かりました。この後に日本プロレス一行が巡業で下関に入ってくるんで私もそこから合流するんで見に来ますか」。いきなりの直談判で巡業への同行の誘い。飛び上がるほどうれしかったという。
 「今、思えば北沢さんに入門を許可する権限はないし、まだ、正式に入門できた訳じゃないんだけど、自分としては、これで“入れる。レスラーになれる”って思った。二つ返事で“お願いします”って答えた」
 別府で兄弟での直談判から数週間後。北沢に言われた通り父親の晋、兄・栄二と共にふるさとの大分・国東を離れ、日本プロレスの試合地となる山口・下関へ向かった。試合を観戦した後、北沢に日本プロレス一行が宿泊している旅館に連れて行かれた。そこで当時の現場責任者の吉村道明と会った。吉村は、力道山の全盛時代から「火の玉小僧」の異名を持つ人気レスラーで力道山が亡くなった後は幹部レスラーとして日本プロレスを支えていた。
 「北沢さんに連れられて吉村さんのところにあいさつに行った。その後、自分たちはすぐに部屋を出たんですが、後で、北沢さんが一生懸命に頼んでくれたようです」