レスラーノート

奥村茂雄

1972年5月25日
大阪府池田市出身
182cm 108kg 血液型:AB型

通称
戦慄の逆輸入ルード
タイトル歴
CMLL世界6人タッグ
CCWカナディアンヘビー
CAWFカンナムタッグ
ボーブドワイヤーストリートファイト6人タッグ
CMLLオクシデンテ・ライト
アレナコリセオ・タッグ
得意技
フルネルソンスープレックス
ムーンサルトプレス
エクスプロイダー
腕極め式DDT

栗栖トレーニングジム出身。IWA格闘志塾に入団。93年12月31日、神奈川県横浜市無国籍屋台15番街ヨンドンの菊澤光信戦でデビュー。 95年7月15日、後楽園ホールでの「格闘技の祭典」で剛竜馬と対戦。11分7秒、パワーボムからのドラゴンスリーパーに敗れた。同年に東京プロレス、東京プロレス崩壊後は石川一家(新東京プロレス)で活躍。

1998

98年1月18日、後楽園ホール大会で冬木弘道と対戦。9分48秒、ラリアットに敗れた。1月19日、藤沢市の湘南大庭市民センター大会で、石川の引退試合の対戦相手となった。11分53秒、ラリアットで勝利。2月11日、新東京プロレスの石川県産業展示館大会で江川英知と対戦。6分31秒、ラリアットで勝利したが、フロントスープレックスをくらって左肩ジン帯断裂、関節脱臼の重傷を負ってしまった。同日にZ−Pと対戦し、左肩を狙われて大苦戦したが、4分1秒、スモールパッケージホールドで勝利。2月13日、東富山体育館大会でバッドニュース・アレンを相手にCCWカナディアンヘビー級王座の防衛戦。左肩を狙われて、8分44秒、腕ひしぎ逆十字固めに敗れて王座転落。2月24日、全日本プロレスに初参戦。ツインメッセ静岡大会で志賀賢太郎と対戦し、12分41秒、スワンダイブ式ボディプレスに敗れた。左肩の負傷のため真価を発揮できなかった。その後はWARにも出場。5月には小川良成の代役として全日本プロレスの東京ドーム大会に出場した。

1999

99年8月、荒谷と共に米国遠征に出発し、CAWFカンナムタッグ王座を獲得。

2000

全日本プロレス分裂後の00年10月より正式入団。大量離脱後の全日本プロレスの貴重な戦力として活躍。10月28日、日本武道館大会でジャイアント・キマラと対戦。9分53秒、ボディプレスに敗れた。

2001

01年7月14日、日本武道館大会で長井満也と対戦。10分9秒、ハイパーニー空牙に敗れた。8月19日、後楽園ホール大会で川田利明と対戦。10分14秒、延髄斬りに敗れた。9月8日、日本武道館大会で荒谷と組んで嵐、北原組を相手にアジアタッグ王座決定戦。17分38秒、嵐の嵐ドリラーに奥村が敗れた。10月12日、諏訪湖スポーツセンター大会で平井伸和と対戦。11分、腕固めDDTで勝利。10月14日、小山ゆうえんち大会で愚乱・浪花と対戦。12分5秒、腕決めDDTで勝利。10月16日、和歌山県立体育館大会で宮本和志と対戦。10分32秒、エルボーバットで勝利。10月19日、大阪府立体育会館・第2競技場大会で平井伸和と対戦。7分46秒、エクスプロイダーで勝利。10月23日、いわき市立総合体育館大会でジョージ・ハインズと対戦。14分3秒、ハインズドライバーに敗れた。

2002

02年1月2日から始まったジャイアント馬場杯争奪リーグ戦に参戦。開幕戦の後楽園ホール大会で平井伸和と対戦。15分58秒、外道クラッチにフォール負け。1月5日、博多スターレーン大会で保坂秀樹と対戦。5分13秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。1月6日、長崎・ncc&スタジオ大会で土方隆司と対戦。4分23秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。1月8日、北九州市立小倉北体育館大会でHi69と対戦。2分27秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。1月11日、大阪市中央体育館大会で長井満也と対戦。7分16秒、ハイパーニー空牙に敗れた。リーグ戦は3勝2敗に終わった。2月16日、福江市中央公園体育館大会で太陽ケアと対戦。14分4秒、ハワイアンスマッシャーに敗れた。4月10日、月寒グリーンドーム大会でHi69と対戦。6分41秒、エクスプロイダーで勝利。4月13日、日本武道館大会で長井満也と組んで嵐、荒谷信孝組を相手にアジアタッグ王座決定戦。23分27秒、荒谷のラリアットに奥村が敗れた。7月13日、大分県立荷揚町体育館大会で荒谷信孝と対戦。10分19秒、腕ひしぎ逆十字固めで勝利。9月13日、春日井市総合体育館大会で小島聡と対戦。11分、ラリアットに敗れた。9月16日、後楽園ホール大会で保坂秀樹と対戦。12分42秒、パワーボムに敗れた。9月23日、札幌テイセンホール大会で宮本和志と対戦。7分37秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。11月28日、大阪府立体育会館・第2競技場大会で保坂秀樹と対戦。8分48秒、ラリアットで勝利。

2003

03年1月10日、岩国市体育館大会で土方隆司と対戦。10分24秒、エクスプロイダーで勝利。2月17日、鹿児島アリーナ大会で天龍源一郎と対戦。8分39秒、53歳に敗れた。3月31日、函館市民体育館大会でギガンテスと対戦。10分4秒、チョークスラムに敗れた。4月8日、岐阜産業会館大会で河野真幸と対戦。8分40秒、逆片エビ固めで勝利。4月10日、広島県立総合体育館小体育館大会で嵐と対戦。6分57秒、嵐ロックに敗れた。4月26日、Zepp Osaka大会で荒谷信孝と対戦。13分28秒、ラリアットに敗れた。4月29日、Zepp Fukuoka大会で宮本和志と対戦。11分30秒、虎69(タイガーロック)で勝利。7月6日から始まったアジアタッグ王座決定リーグ戦に平井伸和と組んで参戦。1勝2敗1引き分けに終わった。8月31日、醍醐グランドーム大会で土方隆司と対戦。10分13秒、垂直落下式ブレーンバスターで勝利。9月6日、日本武道館大会で平井伸和と組んで佐藤耕平、横井宏考組のアジアタッグ王座に挑戦。11分31秒、横井の右ストレートに平井が敗れた。9月21日、後楽園ホール大会でクラッシャー・バンバン・ヒライと対戦。14秒、横入り式エビ固めにフォール負け。10月5日、後楽園ホール大会で平井伸和と対戦。4分51秒、回転エビ固めでフォール勝ち。10月10日、大阪府立体育会館・第2競技場大会でクラッシャー・バンバン・ヒライと対戦。4分26秒、両者反則負け。10月11日、高松市民文化センター大会でクラッシャー・バンバン・ヒライと対戦。20分時間切れ引き分け。10月14日、八戸市体育館大会で平井伸和と対戦。6分56秒、両者反則負け。延長戦は20秒、無効試合。10月15日、築館町総合運動公園体育館大会でクラッシャー・バンバン・ヒライと対戦。20分時間切れ引き分け。10月16日、いわき市平体育館大会でクラッシャー・バンバン・ヒライと対戦。6分15秒、両者リングアウト。延長戦も2分42秒、両者リングアウト。10月17日、市原臨海体育館大会でクラッシャー・バンバン・ヒライと対戦。7分8秒、リングアウト勝ち。10月20日、高山マウントエース大会で平井伸和と対戦。7分14秒、リングアウト勝ち。10月22日、佐久市総合体育館大会でクラッシャー・バンバン・ヒライと対戦。20分時間切れ引き分け。10月24日、新津市民会館大会で平井伸和と対戦。5分5秒、無効試合。延長戦は5分時間切れ引き分け。10月26日、日本武道館大会でクラッシャー・バンバン・ヒライと対戦。6分58秒、グラウンド・コブラツイストで勝利。

2004

04年1月8日、広島県立総合体育館小アリーナ大会で平井伸和と組んでグレート・コスケ、獅龍組のアジアタッグ王座に挑戦。19分10秒、獅龍のドラゴンスープレックスに奥村が敗れた。1月11日、福山ビッグローズ大会で小島聡と対戦。10分7秒、ラリアットに敗れた。1月25日、栗栖ジムの苅田土地改良記念館大会で栗栖正伸とエキシビションマッチ。10分時間切れ引き分け。3月20日から始まったHOLD OUT CUPに参戦。開幕戦の後楽園ホール大会で平井伸和と対戦。15分30秒、両者リングアウト。その後、腰痛のため欠場。3月23日、6選手中3選手が欠場したためリーグ戦は中止となった。3月に全日本プロレスを退団。5月からメキシコ遠征。CMLLでルードとして活躍。

2005

05年2月5日、ジャイアント馬場七回忌追善興行で一時帰国し、と組んで荒谷、石狩組と対戦。ジャンピングヘッドシザースで会場を沸かせた。7分49秒、嵐がパワーボムで石狩に勝利した。その後もメキシコでルードとして活躍。CMLLでは闘龍門の大原はじめと組んでヒールで活躍。その後、新日本プロレスから遠征に来た後藤洋央紀のアイデアで日本人をイメージさせるユニフォームを着てヒールユニットとして3人で活躍。

2007

07年7月9日、メキシコ州メキシコシティー・アレナ・コリセオでの闘龍門MECIXOの自主興行で後藤洋央紀、大原はじめと組んでSUZUKIカップトーナメントに参戦し、1回戦でアレックス・コズロフ、岡田かずちか、中嶋勝彦組と対戦。15分47秒、OKUMURAが急所攻撃からの片エビ固めで岡田にフォール勝ち。同日の決勝でウルティモ・ドラゴン、佐々木健介、マルコ・コルレオーネ組と対戦。8分6秒、佐々木のノーザンライトボムにOKUMURAが敗れた。

2008

08年6月24日、アレナ・メヒコでファビアンのケブラーダを受けた際に負傷し、長期欠場。左鎖骨を骨折し、2度の手術を行った。11月9日にアレナ・コリセオの6人タッグで復帰。

2009

09年2月15日、新日本プロレスの両国国技館大会の第0試合に出場し、金本浩二と組んで岡田吉橋組と対戦。日本での試合は4年ぶりだった。6分22秒、金本が吉橋にアンクルホールドを決めて勝利。3月20日、Zepp Tokyoでのルチャ・フィエスタ2009(ウルティモ・ドラゴンプロデュース興行)で大原はじめと組んでウルティモ・ドラゴン、ブルー・デモン・ジュニア組と対戦。ウルティモのマスクを完全に破り、ブルー・デモン・ジュニアのマスクも剥がしにかかったが、控室からウルティモが新しいマスクで再登場し形勢逆転。19分25秒、ウルティモのアサイDDTに奥村がフォール負け。8月13日、新日本プロレスの愛知県体育館大会に来日し、石井智宏 と組んでミスティコ4代目タイガーマスク組と対戦。10分9秒、ミスティコのラ・ミスティカにOKUMURAが敗れた。11月15日、アレナ・メヒコでマキシモを相手にカベジェラ戦で対戦し、2対1で勝利。

2010

10年5月7日、アレナ・メヒコ大会のメインに登場し、棚橋弘至、タイチと組んでエクトール・ガルサ、ラ・マスカラ、イホ・デル・ファンタズマ組の6人タッグ王座に挑戦。2対1で勝利してCMLL世界6人タッグ王座を獲得した。5月21日、アレナ・メヒコ大会でラ・マスカラ、ラ・ソンブラマスカラ・ドラダ組に敗れて6人タッグ王座から転落。

2011

11年1月22日、新日本プロレスの後楽園ホール大会に登場。アトランティスと組んでバーナードアンダーソン組のIWGPタッグ王座に挑戦。13分6秒、アンダーソンのガンスタンにOKUMURAが敗れた。1月23日の同会場での大会2日目には内藤高橋と組んでCMLL世界6人タッグ王者のマスカラ、ドラダ、ソンブラ組にメキシコルールで挑戦。1本目は5分18秒、ソンブラの変型アラビアンプレスに高橋がフォール負けし、5分31秒、ドラダのDDTに内藤が敗れて敗退。2本目は4分35秒、内藤がジャックナイフ式エビ固めでドラダに勝利し、4分49秒、内藤と高橋の合体技リミット・レス・エクスプロージョンからOKUMURAが体固めでソンブラにフォール勝ちし勝利。3本目は4分14秒、マスカラのラ・カンパーナにOKUMURAが敗れて王座奪取に失敗した。7月12日、グアダラハラ大会でガジョに勝利してCMLLオクシデンテ・ライトヘビー級王座を獲得。9月18日、グアダラハラ大会でガジョを破り初防衛に成功。7月10日、グアダラハラ大会でサグラドを相手に防衛戦。1本目はパワーボムで勝利。2本目はトケ・エスパルダスにフォール負け。3本目はムーンサルトプレスに敗れて王座転落。

2013

13年1月18日、後楽園ホールでの新日本プロレスの「ファンタスティカマニア」に来日。エウフォリアと組んでティタンタマ・トンガ組と対戦。8分17秒、トンガのヘッドシュリンカーにエウフォリアが敗れた。1月19日の2日目ではメフィストと組んでディアマンテ、マスカラ・ドラダ組と対戦。9分38秒、メフィストが雪崩式デビルウィングスでドラダに勝利。1月20日の3日目はミステリオッソ・ジュニア、邪道外道、YOSHI−HASHI、石井と組んでディアマンテ、ティタン、マスカラ・ドラダ、BUSHI、4代目タイガーマスク、ライガー組とトルネオ・シベルネティコ(CMLL式イリミネーションマッチ)で対戦。16分43秒、最後に残った石井がタイチにラリアットで勝利した。3月3日、アレナコリセオでナマハゲと組んでストゥーカ・ジュニア、フエゴ組のアレナコリセオ・タッグ王座に挑戦。1本目はOKUMURAがみちのくドライバー2でフエゴに勝利。2本目はフエゴの首固めにOKUMURAがフォール負け。3本目はナマハゲがストゥーカ・ジュニアにエビ固めでフォール勝ち。アレナコリセオ・タッグ王座を獲得。3月15日、アレナ・メヒコでのビッグショー「オメナヘ・ア・ドス・レジェンダス」のメインでナマハゲと組んでストゥーカ・ジュニア、レイ・コメタ組を相手にマスカラ&カベジェラマッチ。1本目はナマハゲが飛びつき腕ひしぎ逆十字固めでコメタに勝利。2本目はストゥーカ・ジュニアのパワーボムにナマハゲが敗れた。3本目はコメタの450°スプラッシュにナマハゲが敗れた。OKUMURAが丸坊主、ナマハゲがマスクを剥がされ素顔になった。7月14日、アレナ・メヒコでデルタ、ゲレーロ・マヤ・ジュニア組を相手にタッグ王座の防衛戦。1本目はOKUMURAがみちのくドライバー2でマヤ・ジュニアに勝利。2本目はデルタのムーンサルトプレスにOKUMURAが敗れた。3本目はOKUMURAがレフリーの隙をついた急所蹴りからデルタにフォール勝ち。初防衛に成功した。8月30日、アレナメヒコ大会でのトーナメント「トルネオ・カンペオナ−ト・ウニベルサル」に出場。1回戦で棚橋と対戦。ダルマ式ジャーマンに敗れた。9月13日、CMLLのビッグマッチ「アニベルサリオ」に登場。石井、ナマハゲと組んでストゥーカ・ジュニア、レイ・コメタ、フエゴ組と対戦。1本目はOKUMURAがみちのくドライバーでフエゴに勝利。2本目はフエゴのパランカ・アル・ブラソにナマハゲが敗れた。3本目は石井が雪崩式ブレーンバスターでストゥーカ・ジュニアに勝利した。11月3日、アレナコリセオでデルタ、ゲレーロ・マヤ・ジュニア組を相手にタッグ王座の防衛戦。1本目はナマハゲがジャーマンスープレックスでデルタに勝利。2本目はマヤ・ジュニアのスタンディング式変型腕固めにOKUMURAが敗れた。3本目はデルタのバリアンテ・デ・クルセタにナマハゲが敗れてタッグ王座から転落した。

2014〜2015

14年1月、新日本プロレスの「ファンタスティカマニア」に出場。 15年1月、新日本プロレスの「ファンタスティカマニア」に来日。1月13日、大阪府立体育会館・第2競技場大会でアンヘル・デ・オロと対戦。10分時間切れ引き分け。1月17日、新木場1stRING大会でアンヘル・デ・オロのCMLL世界ライトヘビー級王座に挑戦。12分13秒、変型羽折り固めに敗れた。

2016

16年1月、新日本プロレスの「ファンタスティカマニア」に来日。1月19日、京都KBSホール大会でラ・パンテルと対戦。8分1秒、ヌードラグネロに敗れた。1月20日、大阪府立体育会館・第2競技場大会でゲレーロ・マヤ・ジュニアと対戦。8分12秒、キャプチャーDDTで勝利。1月23日、後楽園ホール大会でボビー・スィーと組んでゲレーロ・マヤ・ジュニア、テ・パンテル組のアレナ・コリセオタッグ王座に挑戦。10分42秒、マヤ・ジュニアのパイルドライバーにスィーが敗れた。

2017

17年1月、新日本プロレスの「ファンタスティカマニア」に来日。1月21日、後楽園ホール大会でストゥーカ・ジュニアと対戦。7分55秒、トルぺドスプラッシュに敗れた。2月22日、アレナメヒコ内のジムでの練習中、首を負傷。3月29日、帰国。頸椎頚椎6番骨折、頚椎6・7番亜脱臼、靭帯の部分断裂と診断された。4月18日、手術。11月24日、アレナメヒコで復帰。

2018

18年1月、新日本プロレスの「ファンタスティカマニア」に来日。1月19日、後楽園ホール大会でフエゴと対戦。6分45秒、ブリティッシュフォールで勝利。

2019

19年1月、新日本プロレスの「CMLL FANTASTICA MANIA」に来日。1月11日、大阪府立体育会館・第2競技場大会でサンソンと組んでアトランティス、アトランティス・ジュニア組と対戦。10分16秒、この日がデビュー戦となったアトランティス・ジュニアに対し、OKUMURAがスピニングDDTで勝利。1月21日、後楽園ホール大会でアトランティス・ジュニアと対戦。7分39秒、アトランティーダに敗れた。3月3日、虫垂炎のため入院。3月11日、退院。以後、傷口が感染していたため、長期欠場。4月、大阪府池田市のスポーツ親善大使に就任。6月21日、スペインで復帰。

2020

20年1月、新日本プロレスの「ファンタスティカマニア」に来日。1月19日、後楽園ホール大会でストゥーカ・ジュニアのNWA世界ヒストリック・ライトヘビー級王座に挑戦。12分25秒、トルペド・スプラッシュに敗れた。

2023

23年2月22日から始まった、新日本プロレスの「ファンタスティカマニア」に参戦。2月28日、後楽園ホール大会でドゥルセ・ガルデニアと対戦。7分15秒、ラ・コケタに敗れた。



スクラップブック
CMLLの逆輸入ファイター・OKUMURA
「両団体の架け橋になるのが僕の使命」
(2017年1月21日。スポーツナビより)
――メキシコに渡る前に、全日本プロレスを退団されましたが、どのような事情があったのでしょうか?
 全日本が門戸開放して、ボクも1998年から参戦させてもらうようになりました。最初は(ジャイアント)馬場さんに出してもらっていたわけです。その後、馬場さんが亡くなって、三沢(光晴)さんの体制となって、しばらく呼ばれなかったんですが、またスポット参戦させてもらうようになりました。そんな折、分裂があって、三沢さんたちがノアをつくった。そのとき、(馬場)元子さんから連絡があって、「あなたは向こう(ノア)から誘われてるの?」と聞かれたので、「誘われてません」と答えて、また上がるようになって、2000年10月に入団したわけです。ボクが全日本で、お世話になったのは馬場さん、三沢さん、元子さんの3人なんです。ですが、その後、武藤(敬司)さんの体制になって、一生懸命やってはいるんですけど、今のままじゃ「ひと山いくら」の選手だな。このままじゃダメだから、変わらなきゃと思って辞めたんです。先に元子さんに意向を伝えました。
――その後、どうしてメキシコに行くことになったのですか?
 まず、馳(浩)さんに相談に行きましたし、林(督元)リングドクターの紹介で、新日本プロレスと話したりもしました。そして、師匠である栗栖(正伸)さんに「全日本を辞めました」と報告するために、あいさつに行ったんです。そしたら、栗栖さんから「メキシコに行ってみないか?」と言われて・・・。栗栖さんは80年代に3年半、メキシコにいた経験があるんです。それで、「ネコちゃん(ブラック・キャット)とは友達だから紹介してやるから」と言われまして。そのとき、メキシコに行くなんて考えてもいませんでした。
――それがまた、どうして心変わりをしたのですか?
 ネコさんと食事する機会がありまして、ネコさんは新日本の人だけど、「オレは栗栖さんと友達だから、新日本も全日本も関係ない。分け隔てはしないから。「1年間は帰らない」と約束するなら、CMLLに口を利いてやるから」と言ってくれたんです。そりゃ向こうの団体だって、3カ月や半年で帰られたのでは意味がないですからね。半年とかじゃ何も覚えないし、商品としての価値もないですから。
――そこで、メキシコに行く決断をされたんですか?
 いいえ。まだです。それからメキシコ行きを考えるようになりました。なんせメキシコでイメージできたのはタコス、テキーラ、サボテンが多い、ルチャ・リブレくらいだったんですから、まったくゼロから考えてみることになったんです。そこで、悟ったんですよ。ボクは5万といるプロレスラーのなかで、しょせん「ひと山いくら」の選手。確かに無謀な挑戦だし、「アイツ、頭狂ったんじゃないか?」とか言われましたよ。でも、吹けば飛ぶような人生。死ぬ気で1年やってみて、ダメならキッパリ、プロレスを辞めようと覚悟して、メキシコに行くことを決めました。それで、家を引き払って、車を売って、海外転出届を出して、行くことになったんです。04年の5月ですね。